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(Photo) ハイドリヒ暗殺

by  コルディッツ
博物館戦史写真

 今年は戦争映画の当たり年なのでしょうか?沖縄戦を舞台にした『ハクソーリッジ』、ドイツ占領下のオランダでのスパイ映画『偽りの忠誠』、敗北を愛でる英国人向き?の『ダンケルク』。また冷戦時代になりますが、マーキュリー計画の舞台裏を描く『ドリーム』など、見応えのありそうな映画が目白押しです。
その中で私が一番期待しているのは、8月12日公開の『ハイドリヒを撃て!「ナチの野獣」暗殺作戦』です。1975年に製作されて、翌年日本で公開された『暁の七人』以来久々の、ハイドリヒ暗殺作戦を本格的に再現したようです。
という訳で、トリビアを少し紹介させていただきます。
 ハイドリヒ親衛隊大将(38歳)は1942年5月27日、プラハの路上で英国SOE(特殊作戦執行部)が訓練して派遣した亡命チェコスロバキア兵士に襲撃され、6月4日に死亡しました。親衛隊のNo2で、ヒトラーやヒムラーからの信任厚く、第三帝国の闇の面の統括者として、ドイツ警察組織のボスでもあったので、インターポール総裁を兼務しています(銭形警部のボス?)。
 ナチスに入党する以前は海軍将校で、後に対立するカナリスの部下だったこともあります。ナチスで幹部に昇級してからパイロット資格を取得し、親衛隊職務の合間に空軍大尉としてBf109Eを操縦。ノルウェー、英国、ロシア上空を飛び、ロシアでは地上砲火に撃墜されて一時行方不明になり、ヒトラーから
空軍勤務を禁止されています。
 ハイドリヒは反抗的なボヘミア・モラヴィア保護領(ドイツに分割されたチェコスロバキアのチェコ領域)の総督代理ー実質No1に指名され、プラハ郊外に住み、「飴と鞭」政策を展開してチェコの支配を安定させました。その成功から暗殺の標的とされ、護衛を連れずにオープンカー状態のメルセデス・コンバーティブル(ナンバーSS-3)での通勤途上を狙われたものです。


 暗殺チームは2人で、その1人ヨゼフ・ガブチークは、市内に入る曲がり角で待ち伏せ、車がカーブに入って減速した時に、車の前に姿を現し隠し持ったステン・ガンをハイドリヒに向けました。が、しかし銃弾は射出されず、ヨゼフは逃走、運転手クラインは停車して追跡します。(その後返り討ちに遭います)
 この様子を見ていたもう1人の暗殺者ヤン・クビッシュは、対戦車榴弾を改造した爆弾を投擲して爆発させ、ハイドリヒに致命傷を負わせました。爆発はヤンの顔面も傷つけましたが、彼も逃走に成功しました。

 事件後ナチの報復は苛烈で、リディッツ村の悲劇などもあり、レジスタンスは大打撃を受けます。そしてヤンとヨゼフは、他の工作員5人とプラハ市内の大聖堂の地下納骨室に潜伏しましたが、裏切者の通報で発覚していまいます。
 6月18日朝、SS部隊は大聖堂を完全に包囲して、逮捕を目論んで大聖堂に突入します。その朝、ヤンは2人の工作員と警戒当番で聖堂内にいて、SSと壮烈な銃撃戦を展開して戦死します。地下納骨室にいたヨゼフら4人も逃げ場のない絶望的な銃撃戦の末、全員自決しました。
 暗殺犯の逮捕に失敗したナチは報復を続け、チェコの抵抗運動はほぼ壊滅し、終戦までドイツへの戦争協力を余儀なくされることになりました。


報復を招いたSOEの政治的暗殺を問うポスター
 帝国戦争博物館(ロンドン)にて   2005年7月撮影
 流石は戦争博物館、そして英国人、よく考えています。



   ハイドリヒ暗殺の一因とされるヴァンゼー会議会場
  ヴァンゼー会議記念館(ベルリン郊外)にて  2005年7月撮影



ハイドリヒ襲撃現場?
 プラハにて       2005年4月撮影
 チェコ語の地図を片手に廻り、それらしい記念標識もなく、?です。
 環境は変化していると思いますが、ハイドリヒのメルセデスは、
奥の左手方向からカーブを描いて来たのでは。
 なおチェコはドイツに占領されてから右側通行になりました。     



180度方向を変えて、道なりに下った地点。この先で車は停車したかと。



暗殺チームの隠れた聖ツィリル・メトデス正教大聖堂
 プラハにて        2008年8月撮影
 写真中央左にある階段を上って大聖堂内に入りますが、階段に
挟まれた所にあるドアは、現在博物館の入り口になっています。
 博物館名称は「国立ハイドリヒ・テロの英雄記念館」となるようです。



地下納骨室の明り取りの所に記念碑が置かれています。



記念碑。事件後、大聖堂のペレク神父等の教会関係者も処刑されています。



 明り取りの周囲には弾痕が残っています。
この明り取りから催涙ガス攻撃や放水攻撃が行われました。
献花が絶やされることはありません。



地下納骨室から見た明り取り。右下にある壁を掘った穴は、工作員たちが
脱出を図って果たせなかった痕です。以下4枚の写真は2005年5月の撮影です。



未完の脱出口にもメッセージカードや献花が。



棺桶を納骨するスペース。工作員はここで寝泊まりしたようです。



納骨室から大聖堂内に抜ける階段。



博物館なので展示コーナーがあります。以下2008年8月撮影



工作員たちが英国から持ち込んだステン・ガン。ハイドリヒに発砲を
出来なかった理由は不明です。



ヤンがメルセデス・ベンツの右後部タイヤにぶつけた対戦車榴弾改造の
爆弾。爆発で車の部品と座席の馬毛はハイドリヒの脾臓に入り、
敗血症を発症させ死亡に追い込みました。



チェコ軍事博物館のハイドリヒ関係の展示
 軍事博物館(プラハ)にて        2008年8月撮影
 撮影当時はありませんでしたが、現在は修復したメルセデスを展示。



右がヤン・クビッシュ、その左がヨゼフ・ガブチーク。



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