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誌上個展

<日本航空史>干潟の飛行場、洲の飛行場

  by 加藤 寛之
プラモデル コラム


 広くて平らで、万が一(もっと多発しそうだが)のときでも地上の被害が少ないところを飛行場にしたい、しかも行きやすいところで。
 軍用には現在の埼玉県所沢市に飛行場ができたが、民間人はそうはいかない。よって、日本の民間航空黎明期には、東京湾の遠浅な海岸の砂浜を飛行場に使っていたことがある。
掲載写真(1)と(2)は当時の絵葉書。
こちら向きの飛行機の絵葉書(1)は、その様式をみると1918年(大正7年)4月から1933年(昭和8年)1月までの発行品だ。
もう1枚の(2)は宛名面が剥落していて、わからない。

(1)干潟飛行場


(2)干潟飛行場



 “えっ、砂浜?”と思われた方もおいでかも知れないが、写真のように広い干潟の上である。海水の塩分が気になるし、潮が満ちてきたら退避が忙しいだろうなとは思うし、それに当時は勝手に使えたのだろうか。
掲載写真の機体だが、申し訳ないが誰の何って飛行機なのか調べていない。こんなことではマズイとは思うが、今回に見てほしいモノは干潟だから、ご勘弁を。


 2017年7月17日、千葉県に行く機会があり、ついでに「稲毛海岸」駅から歩いて「稲毛民間航空記念館」に行ってみた。ここには航空黎明期に活躍した民間人、奈良原三次氏とその関係者の足跡が展示されている。その館での説明文によれば、当時はここに沖合3キロまで硬く引き締った平らな干潟があったのだという。今は埋め立てられて陸地になり、そこに多くの人が暮らしている。「稲毛民間航空記念館」には、館の近辺にある航空関係記念碑などを記した地図があったが、私はそこに行く時間がなく、訪問していない。
 館には奈良原三次氏の「鳳」号の80%レプリカがあり、それ以外は模型とパネル展示という簡素なものだった。入場無料だから、これでも充分にOKだ。「鳳」号の写真を本Web誌へ投稿したかったので聞いて見たら、遠慮してほしいとのことだった。まあ80%レプリカだし、「鳳」号は別の機会に当時の絵葉書を使ってホンモノ映像でご紹介したい。

(3)日本飛行学校格納庫



 東京湾で稲毛海岸の向こう岸みたいな場所である羽田空港だって、似たような飛行場から発展したものだ。ガラス乾板の劣化が著しくて不鮮明なのは残念だが、(3)は日本最初の民間飛行学校、「日本飛行学校」の格納庫を撮った写真。
こちらは洲の上にあったらしい。野沢正編『日本航空50年史』(出版協同社、1960年)に載っているお粗末な格納庫とは、別のものだ。丸太の骨組み、壁面はよしず張りのようだが、大変に立派なものだ。
左手前の機は玉井式1号機、右奥が玉井式3号機であろうか。それならば、授業開始の大正5年12月から3号機墜落の大正6年5月ころまでの間の撮影とみられる。ちょうど女性練習生第1号の上野艶子さんやのちの特撮映画監督円谷英二さんが籍を置いた時期にあたる。



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