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誌上個展

<日本航空史> ニッポン号、諸説あります

  by 加藤 寛之
プラモデル コラム

 ニッポン号というが、「号」は「~さん」みたいなものだから、本名は「ニッポン」。実機の機首に書いてある文字に「号」はない。世界一周とはいっても北半球をちょこっと周るのでなく、赤道を越えているホンモノの世界一周。 そのニッポン号の世界一周のお話しは良く知られているので、全く違うことでニッポン号を紹介したい。ただし「諸説あります」。



 まず、ニッポン号が製造されるところから。
 渡辺洋二『日本の軍用機』(朝日ソノラマ、1997年)p.250 に「大陸で手ひどく被弾し、追浜基地に置かれていた第三二八号機を、三菱が胴体下面のくびれをなくして太くし、機内を輸送機仕様に改めて、外翼内に一四○○リットル分の追加燃料タンクを設けた」とある。これならニッポン号は中古機。

 『日本昭和航空史 新聞報道通信機編』(モデルアート12月号臨時増刊、モデルアート社、平成5年)p.109には、「「本社は三菱に96式陸上攻撃機改造型、96式輸送機2機を発注した。1機は予備機である。」(百年史)大車輪で生産中の“中攻”のラインから328号機が決まりました。勿論武装は全部はずし、内側にフェルトを貼り、小窓を設け、椅子を7脚ならべ、後方は貨物室としました。長距離飛行に備えて1,400litのタンクも増設しました」とある。これなら新造機になる。
 次にテスト。
 『航空ファン』1958年4月号所収の、新谷春水「試験飛行屋の思い出話(1)テストパイロットのノートから」に、こうある。「大阪毎日新聞社主催の世界一周機ニッポン号は私がテストしたが、テスト屋のテスト結果では、全力上昇時、左右の発動機回転を同調せしめると、ブースト圧に20ミリ(水銀柱)の食い違いを生じた。ブースト計の補正やらプロペラ交換等の処置をとったが、どうにも直らない」のだが、引渡し後に問題にはならなかったようだ。



 次は改修。
 「九六式陸上攻撃機」(『世界の傑作機』№91、文林堂、平成14年)』p33上から2段め右側写真の操縦席前を見てほしい。水切りのような板がついている。出発からこの間は連日飛行しているので、この水切りは日本出発時からあったのだと思う。
 だとすると、ニッポン号の代表的写真であるp32下写真やP32上写真は、挑戦飛行以前の撮影かも知れない。さらにいえば、p33の「そよかぜ」にはあるようだ。



 次は返納と再度の貸与。
 世界一周飛行後に海軍へ返納されたニッポン号は、昭和19年に再び毎日新聞社へわたり「暁星」と名付けられたという。
モデルアート創立者の井田博は、『日本昭和航空史 新聞報道通信機編』(モデルアート12月号臨時増刊、モデルアート社、平成5年)p.110で軍用機としての耐用年数から、別機ではないかと疑問を投げかけている。
 そして、最後。
 世界一周飛行を行った「ニッポン」号について、押尾一彦・野原茂『日本航空史100選シリーズ1』p81に、「機名を「暁星(ぎょうせい)」と改め、敗戦までつかわれたらしいが、詳しいことはよくわからない」とある。
駿河昭『大空の証言Ⅰ敗戦』(日刊航空、1992年)のp273に、「終戦直後、近藤完君が奥田(信太郎)社長と神田人事部長を乗せ、ラスト・フライトしています。出張先から羽田に帰着の予定が、豪雨で所沢に着陸、放置した機体は米軍により焼かれたとも聞いていますが、真相は不明です」とある。



 私には、相違する記述のどちらが正しいのか、あるいは両方が違うのか、そういうことはわからない。
最後に昭和15年版『日本民間飛行機全輯』(空臨時増刊)をみると要目記載は少なく、発動機が金星900馬力2基、翼幅25m、全長16m、全高3.7m、巡航速度200m、航続時間10時間、旅客8名500kgとある。機種名は「三菱式 双発輸送機 旅客輸送機」と書いてある。


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