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誌上個展

<日本航空史> 全世界航空界の目標に挑んだ 報知日米号

  by 加藤 寛之
プラモデル コラム



 報知新聞社は昭和6年2月11日、吉原清治飛行士による北太平洋横断飛行への挑戦を発表した。吉原氏は当年27歳の青年だった。機体はユンカース・ユニオールA50型で、吉原飛行士が報知新聞の後援で日独親善欧亜連絡飛行に使ったのと同機種で、これにフロートを付けて水上機にしたもの。 ユンカースらしい波板で、エンジンは80馬力程度で非力だが信頼性は高かったのだろう、同年8月にはドイツから女性飛行士エッツドルフがシベリア経由で訪日している。挑戦機は「報知日米号」と命名されていた。この名前は逓信省大臣小泉又次郎氏(元首相小泉純一郎氏の祖父)が名付けたものだという。



 『日米親善北太平洋横断飛行に就いて 哀情を披瀝して満天下に訴ふ』(報知新聞社社長 野間清治)によれば、
「吉原君は、自発的に是非この大事業を決行したい」と申し出、「報知新聞社として日米親善北太平洋横断を決行致したいと云う希望がある様になった」とある。



 この飛行は無着陸ではなく島づたいで行うもので、トロール船1隻と地上勤務者が支援する。昭和6年5月4日10 時10分、羽田わきの海老取川を離水、埼玉県草加町と吉川町の間を北上して最初の寄港地の沼崎を目指し、北太平洋横断飛行を開始した。 だが14 日に密雲に阻まれる中でエンジンが停止、新知島(しむしるとう)西北岸海上に不時着水、機体は高波で壊されて飛行計画は挫折した。吉原氏と機体は漂流中を農林省の白鳳丸に救助された。報知新聞社は、直ちに再挑戦を試みたが、準備中に予備機を壊し挑戦を断念した。



 後下方から撮ったボ~っとした写真は、三沢市の旧家から出たと記して販売されていたもの。裏面に「報知機日米号 東京羽田発6,5,4 10時発 午後3時33分沼崎○○○○着 5/5午前10時○○○○吉原清一氏出発 5/5○○○○○○」(○印不明 4連の○は地名か?)とあるから、最初の着水地である沼崎で撮られたもので、昭和6年5月4日あるいは5日の撮影と推定される。 「清一」は誤記だろう。赤く塗られていたらしいフロートが暗く写っている。
 タイトルの「全世界航空界の目標」の語句は、前掲の野間社長の文章にある。


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