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誌上個展

<日本航空史> 「われわれは日本にも女流飛行家の出るのを望んでいる」

  by 加藤 寛之
プラモデル コラム



 タイトルの言葉は、大隈重信氏がローさんに語った言葉のようだ。
1919年1月、27歳のルース・ローさんは、興行飛行をして稼ごうと夫と技術者との3名でアメリカから来日した。日本女性の意識に強烈な刺激を与えたキャサリン・スチンソンさん来日のわずか3年後だが、いろいろ宣伝活動をしたものの人気は盛り上がらず、興行は成立しなかったという。
 その盛り上げ活動のなかでは、講演も行っていた。『朝日講演集 第四輯』(大阪朝日新聞合資会社、大正8年)掲載の「飛行に於ける婦人の能力」という講演記録があり、一部を抜粋してみたい。人気が出なかったからこそ開催され、宣伝のために文字にもなった講演記録だともいえる。1919年という時代であり、当時のアメリカ社会が飛行家を目指す女性を見る目を語ったものだ。それを踏まえて御覧いただきたい。なお、文章は現代的に読みやすくしてみた。

 『婦人が飛行家として成功するということは、もちろん容易なことではありません。けれども成功しない理由は、婦人が臆病であるがゆえではございません。また飛行をしようというところの希望がないからというわけでもございません。婦人自身もその罪があるのでございましょうが、外部の圧迫によることが多いのでございます。あるいは父、母、良人、あるいはまた恋人などが申しますには、婦人として飛行するということはとてつもないことであるから、これはしてはいけない、することは出来ない、するな、という命令をもってこれを束縛いたします。これが多くの婦人が飛行家として世の中に立っていけない一つの原因なのでございます。』 



 掲載写真は当時の絵葉書で、横位置は東京駅で出迎えのシーンだが、申し訳ないが男性がだれなのか不明。縦位置は雪が積もった中での機上シーンで白いタイヤがこの当時らしい。キャサリン・スチンソンさんがエンジンを機首に装着した新鮮な飛行機だったのに比べて旧いカーチス式というのも人気が出なかった理由だろう。
※本Web誌2017年1月号「<日本航空史>“空飛ぶ女学生”キャサリン・スチンソンさん」と比べてみてください。 



<参考>
『早稲田教育評論』第26巻第1号によれば、大隈重信が創立者である早稲田大学の場合、1920年の大学令による大学設立時に女性へ学生としての開放を計画したが、文部省の要請により断念、1921年からはやむを得ず聴講生としての学習を認めたという。全学部に正規の学生としての入学を認めたのは1939年以降の時期。当時学部学生として女性の入学を認めていた大学の割合は30%程度、女子学生の割合は約0.3%だったそうだ。
やむを得ず聴講生としての学習を認めたということだが、女性差別だといえば、現代の感覚ではその通りだ。だが今とは時代が違う。聴講生であったとしても、早稲田大学は女性に学びの門戸を開くことを優先したのだと思う。



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