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誌上個展

<日本航空史> 澤田中尉

  by 加藤 寛之
プラモデル コラム


会式七号駆逐機

 日本の航空黎明期といってもいい大正6年3月8日、埼玉県の所沢飛行場から飛び立った澤田秀中尉は乗機が空中分解して墜落、殉職した。
その機体は会式七号駆逐機(陸軍会式七号小型飛行機)またの名をカーチス型駆逐機という。3車輪式の小型機で、高性能すぎて澤田中尉以外に乗り手がなかったらしい。日本航空協会『日本航空史 明治・大正編』(昭和31年)には「緒元についてはつまびらかにしないが」とあるが、野沢正解説『日本航空機辞典[上巻]』(モデルアート社、1989年)には諸元があって、全幅11.00m、全長9.00m、エンジンは90馬力とある。陸軍モ式1912年型飛行機は全幅15.50m、全長12.00m、70馬力とある。モ式に比べ、相当に小型で強力だ。会式七号駆逐機は澤田中尉の設計だそうで、パイロットとしても入隊5か月でフランスに派遣されたというから、澤田中尉はフォッケウルフ社のクルト・タンク氏とか震電設計者の鶴野正敬氏のように、設計者であり操縦者でもある人だった。ずっと飛行機らしい形態の制式1号飛行機の設計にも関わっている。



澤田中尉 改造モ式 (澤田式七号)

 『日本航空史 明治・大正編』によると、墜落は800mの高度から垂直に約200m降下、引き起こしの時に空中分解した。『日本航空機辞典[上巻]』ではこれが約600mから降下とある。両書では落ちた場所も違っていて、『日本航空史 明治・大正編』では「小手指村上空、新井砂川窪」の「雑木林」とあるが、『日本航空機辞典[上巻]』では「所沢飛行場北方約1kmの地点」とある。私が調べたところ、新井という地名は南西方向の小手指地区にあるが、所沢飛行場の北方にもあるので、それが混乱要因かもしれない。出版年や記述の詳細さからみて『日本航空史 明治・大正編』の信頼性が高いだろうと私は思っている。代々木で日本初飛行を行った徳川好敏氏はこの事故を目撃しており、それが著書『日本航空事始』(出版協同社、昭和39年)に書かれている。それは『日本航空史 明治・大正編』にそった記述で、こちらでは墜落した場所を「松林の中」としている。
 澤田中尉のお墓は、斎藤茂太『飛行機とともに』(中公新書301、昭和47年)によると東京の青山墓地にある。斎藤茂太はその形を「オベリスクのようなかたちをした高い石塔」としていて、碑面には自作機で墜死したことが刻んであるという。この本の出版年の昭和47年は50年近く前のことなので、今でもこの通りであるか分からない。


制式1号飛行機

 掲載した3枚の写真はいずれも当時の絵葉書。モノクロの1枚は会式七号駆逐機。カラー画像で銃をかまえる人物が澤田中尉。この機体は改造モ式で澤田式七号ともよばれる。もう1枚の前にエンジンを載せた飛行機のカラー画像が制式1号飛行機で、画像にある説明は「(帝国軍用飛行機)ニユポール式一号飛行機」とある。この写真だが、『日本航空機辞典[上巻]』に左右反転した同じ画像が載っている。この機体のエンジンはルンプラー・タウベと同じだという。当時にカラー写真は存在しないから、2枚のカラー画像はモノクロ画像に色版を重ねて刷ることでカラー化した人工着色。言われなければカラー写真に見える。人工着色絵葉書は着色の際の色数制限や見栄えのための意図的な加工もしばしばみられるのだが、それでも当時の飛行機の色を伝える大事な資料である。


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