Home > グラビア >   CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 第5話 


CARRIER AIR WING FIVE

CVW-5

Part 5                                                    Photo. U.S. NAVY

by Kiyoshi Iwama

Tip of the Sword” 、CVW-5のハンガーに描かれた彼らのスローガンである。空母を守る剣の先は、彼ら自身であり、「剣の先の如く鋭くあれ」と戒めている。またそれは遠く母国を離れ、太平洋の西岸に置かれた剣の先をも意味するように思われる。海外を拠点とする米海軍唯一の空母航空団としてCVW-5が厚木基地に本拠地を置いて、35年が過ぎた。その間、飛行隊の編成や使用する航空機も大きく変わり、その年月の長さを感じさせる。もう少しで在日40年を迎えるが、そのとき彼らは、その記念日を岩国基地で迎える。
我々飛行機ファンを大いに楽しませてくれたCVW-5であるが、厚木基地での活動も残り少なくなった。これを機会に、CVW-5のこれまでを振り返ってみたい。

第5話 朝鮮戦争(中編)

1950年9月27日には、ソウル市内を米軍がほぼ制圧した。それでも38度線以南で小競り合いが続いており、水原では北朝鮮軍の機甲師団の反撃にあって進軍が滞ったりもした。しかし、連合軍の航空優勢の中では最早北朝鮮側のなすすべはなかった。29日にはソウル奪還の記念式典が行われ、マッカーサー元帥から李承晩大統領へソウルが返還された。しかしこの戦争はこれでは終わらなかった。国連安保理の決議は38度線までの回復を目標にしたものであったが、マッカーサー元帥は、38度線を越え、北朝鮮への侵攻を本国の参謀本部へ訴えた。しかし、トルーマン大統領をはじめとするワシントンの上層部は、北朝鮮への侵攻は、戦争の拡大にしかならないと反対の姿勢を示した。

ところが、9月30日になって韓国の大統領、李承晩が北進を命じ、韓国軍の第1軍団が38度線を突破した。このためマッカーサー元帥は、10月1日には北朝鮮に対し無条件降伏を提案。しかし、翌日、北朝鮮側も毛沢東率いる中国に支援を訴えるとともに、マッカーサーの提案を拒否する。

10月3日になって中国の周恩来首相が、米国に対し「米国軍が38度線を越えた場合には、中国が参戦する」と警告を発するが、国連軍では米・英軍に北進命令が出され、米陸軍第1軍団、第8軍団や英第27旅団が10月15日に38度線を越え、北朝鮮内へ雪崩込む。こうして戦線は北朝鮮内へと拡大していった。

国連軍は北朝鮮へ一層の圧力を加えるため、10月13日には日本海に布陣した米海軍の戦艦ミズーリー他重巡3隻による清津港への艦砲射撃を開始。この結果、清津市街は壊滅状態となる。


北朝鮮の清津に向け艦砲射撃をする戦艦ミズーリー
出典:US Navy Official Photo Archive

10月19日にはついに韓国の第1師団が平壌市内に突入、平壌飛行場を制圧する。続いて米英軍も次々と平壌市内へと侵攻し市内中心部を制圧した。そして翌10月20日には国連軍が平壌を占領することとなり、北朝鮮は首都を新義州へ遷都した。中国はというと、周恩来の警告の通り、連合軍が38度線を越えるとすぐさま反応した。10月19日の夜間に約30万の援朝抗米人民義勇軍が鴨緑江を渡河、さらに60万が中朝国境に集まり、待機状態に入った。

中国軍の介入を知らないマッカーサーは、連合軍に対し中国との国境までの進出を命ず。これを受け、米陸軍第8軍団と、韓国の第2軍団が鴨緑江を目指す。ところが鴨緑江への先発隊となった韓国第2軍団第6師団第2連隊の第3大隊が10月25日に中国軍に急襲され、殲滅される。これが朝鮮戦争における中国軍初の本格的戦闘行動である。そして27日には、中国が北朝鮮への義勇軍派遣を正式表明した。

上陸作戦を好むマッカーサー元帥は仁川上陸作戦の成功から、次に北朝鮮の東岸にある元山への上陸作戦を指示する。しかし、元山の周辺にはソ連製の機雷が敷設されているのが発見されたため、上陸の前に機雷の掃海作業が開始された。掃海作業には米海軍を始め、連合国から数百隻の掃海艇が出動、その任にあたった。この掃海作戦には日本の海上保安庁の掃海艇も参加しているが、10月17日、元山北方の永興湾の掃海作業中に1隻の掃海艇が触雷。爆発して沈没した際に、1名の殉職者を出している。この掃海作業は10月25日まで続けられた。米英の空母群は、元山上陸作戦支援のため10月に入り日本海側へ移動、元山を中心に北朝鮮を攻撃するようになった。


北朝鮮の元山周辺海域で掃海作業のためUSS Mocking Birdから音響衝撃機を水中へ投入する水兵
出典:US Navy Official Photo Archive 80-G-422164

このとき第7艦隊に新たな空母が加わった。オーバーホールの急がれるCV-21 ボクサーと交代すべく、CVG-3を載せ10月9日に佐世保を出港したエセックス級空母CV-32 “USS Leyte”である。


サンディエゴから到着し、佐世保に停泊するCV-32 “USS Leyte”
出典:US Navy Official Photo Archive 80-G-434496

レイテは、翌10月10日には朝鮮海域へ入り、TF-77に合流した。一時的ではあるが、TF-77にエセックス級空母が4隻も在籍することになった。しかし、10月22日にはボクサーが本国への帰途に就き、また英海軍の軽空母 トライアンフも休養のため香港へ向かい、HMS “Theseus” と交代した。

一方、護衛空母CVE-118 シシリーとCVE-116 バーデン・ストレートに搭載されたVMF-214とVMF-323は、掃海作戦が終了するまで掃海部隊を援護した。そして掃海作業が一段落すると、CVE-118 シシリーは、バーデン・ストレートを残し、本来の対戦任務に就くためVMF-214を陸揚げし、グアムへ向かった。


元山への上陸を前に北朝鮮地上部隊にロケット弾攻撃をするVA-55(CVG-5)のAD-4
出典:US Navy Official Photo Archive 80-G-422387

そして10月26日、元山への上陸作戦が敢行された。まず米海兵第1師団が上陸し、それに約五万人の米陸軍第10軍団が続いた。第10軍団は内陸に進み、ソウルから北進してきた第8軍団と合流した。北朝鮮軍の陥落は予想外に早く、連合軍の進軍に加速がかかる。特に北進の制限を設けられなかった韓国軍の一部が、一気に中朝国境を流れる鴨緑江にまで達した。


北朝鮮の元山周辺の海岸に陸上部隊を揚陸させたLST
出典:US Navy Official Photo Archive 80-G-421388

しかし10月27日には、中国が朝鮮戦争への義勇軍の派遣を公式発表。また氷結した鴨緑江上を続々と渡河する多数の中国兵を米空軍機が確認した。その後は中国軍の活動が活発化し、各所で国連軍との戦闘が始まる。中国軍との戦闘で国連軍にも連隊規模で壊滅される部隊が現れ、後退を強いられる場面が出始めた。

11月になってマッカーサーは、脅威を増す中国軍に対抗するため、空・海軍の航空部隊に対し中国軍への攻撃命令を下すとともに、鴨緑江に渡された鉄橋への攻撃強化を命じた。しかしながら、ワシントンは、攻撃が中国側に及ぶのを恐れ、橋梁の北朝鮮側への攻撃しか認めなかった。この制約は攻撃するパイロットたちに大きな負担を加えた。川の真ん中を越えずに鉄橋を攻撃すると、中国側からの対空砲火に晒されることになる。このため橋への攻撃はダイブ攻撃となり、これが得意な海軍機に頼らざるを得なくなった。この攻撃は11月9日から21日まで実施され、3つの鉄橋を破壊、4つの鉄橋に損傷を与えるという成果を得た。


攻撃を受ける鴨緑江鉄橋。河の対岸は中国
出典:US Navy Official Photo Archive 80-G-423495

しかし、この作戦が始まる前の11月1日、中国国境の近くを飛行していた米空軍のF-51Dの編隊が、中国側から鴨緑江を越えてきた6機の後退翼を持つ機体と交戦。幸いにしてF-51Dは無事基地に帰り着くことができ、その後のパイロットの証言により、この機体がソ連製の新鋭戦闘機、MiG-15であることが判明する。その後も中国側から発進するMiG-15の飛行が確認されたが、11月8日、金浦飛行場からミッションに就いた第51戦闘要撃航空団、第16戦闘要撃飛行隊(51FIW/16FIS)所属のF-80Cが8機のMiG-15と遭遇し交戦に入る。そしてF-80Cの1機を操縦する、Russell J. Brown中尉がMiG-15の1機を撃墜し初のミグキラーとなった。しかし翌11月9日には、偵察飛行中のRB-29がMiG-15の編隊に襲われ、基地に辿り着いたものの着陸に失敗、5名のクルーの命が失われる惨事となった。またその翌日には北朝鮮へ向かうB-29の編隊が襲われ、1機が撃墜、3機がダメージを受けるなど、MiG-15によるB-29の被害が拡大していく。高速で高機動なMiG-15にとっては、B-29のような大型機は格好の獲物となった。MiG-15の出現により、国連軍側の絶対的制空権は、脆くも崩れ去った。


1953年に北朝鮮パイロットが亡命した際捕獲したMiG-15bis
出典:National Archives and Records Administration

MiG-15の出現は、空軍にも新しい戦闘機の投入を急がせることになった。このため、11月8日に、デラウェア州Wilmingtonに本拠地を置き、後退翼の新鋭機F-86A“Sabre”を装備した第4要撃戦闘航空団(4FIW)に朝鮮半島への派遣命令が出された。4FIWは第334要撃戦闘飛行隊(334FIS)、第335要撃戦闘飛行隊(335FIS)、及び第336要撃戦闘飛行隊(336FIS)の3飛行隊から構成されていたが、その全飛行隊が派遣されることになった。短時間の準備の後、334FISと335FISのF-86Aは、カリフォルニア州のノース・アイランド海軍航空基地へ移動、そこで護衛空母のCVE-115 “USS Bairoko” と軽空母のCVL-29 ”USS Bataan”に搭載された。また336FISのF-86Aは、カリフォルニア州のMcClellan空軍基地に移動、そこから船でサンフランシスコまで川を下り、サンフランシスコ港で待つタンカーに積み替えられた。

一方鴨緑江の鉄橋攻撃の主力となったのは、日本海に位置したCV-32 レイテ(CVG-3)、CV-45 ヴァリー・フォージ(CVG-5)、CV-47 フィリピン・シー(CVG-11)の艦載機であった。彼らは空母を発進後、半島を横切り、225マイル離れた半島西側の鴨緑江にかかる鉄橋に攻撃を加えた。残る護衛空母CVE-116バーデン・ストレートの艦載機群は近接支援に回った。鉄橋攻撃に参加した艦載機は、1,000lb爆弾2発、もしくは2,000lb爆弾1発を抱えたAD-4 スカイレーダと8発の5インチロケットかもしくは8発の100lb爆弾を搭載したF4U-4B コルセア、そして彼らを上空で援護するF9F パンサーであった。F9Fは燃料消費量が高いため、3波に分けてミッションが構成された。最初のターゲットは、鴨緑江河口近くの新義州に架かる橋である。攻撃機は東側から川沿いに侵入し、新義州に向かって突っ込んでいくという形態となった。川の北側は攻撃が禁止されている中国領。こちらの対空砲は目視できるが南側の北朝鮮側にある対空砲は偽装が施され、視認が難しく突然発砲が始まるというもので、パイロットへの心理的負担は想像を絶するものであった。


攻撃を終え、CV-47 USS Philippine Sea に着艦したVF-113のF4U-4B
出典:US Navy Official Photo Archive 80-G-423961

そして最初の攻撃の日、11月10日、新義州橋の攻撃に入るAD-4とF4U-4Bの編隊に襲いかかるMiG-15を視認したVF-111“Sundowners”のF9F-2Bがこれを追い、激しい空中戦の末、William Thomas Amen 少佐がそのうちの1機を撃墜、海軍初のミグキラーとなった。そして攻撃に参加したVA-115 “Arabs”のAD-4は、新義州橋に3発の直撃弾と5発の至近弾を加えた。その後も鴨緑江の鉄橋への攻撃は続き、11月の末までに鴨緑江にかかった橋梁の65%を破壊したが、これで中国軍の侵入を抑え込むことはできなかった。何故なら、冬に向かうこの地域の気温はすでに氷点下となり、鴨緑江も氷が張り詰め、少々の装備の兵士の渡河を容易にしてしまったからである。

さて、この鴨緑江の攻撃ミッションで米海軍機によるMiG-15の撃墜がカウントされている。11月18日の攻撃で、CV-45 ヴァリー・フォージに搭載されたVF-52のF9F-3とCV-32 レイテに搭載されたVF-31のF9F-2BがMiG-15の編隊と遭遇、空中戦となりVF-52とVF-31のF9Fがそれぞれ、1機のMiG-15を撃墜し、5機に損傷を与えた。これで海軍のMiG-15撃墜数を総計3機となる。しかし、海軍機による撃墜はこれが最後で、停戦に至るまでこのスコアは増えることがなかった。その理由は、この作戦終了後の海軍機の作戦エリアが、MiG-15の出現の少ない北朝鮮東部に戻ったことによる。


VF-31のF9F-2Bの攻撃で煙を吹く中国軍のMiG-15
出典:US Navy Official Photo Archive 80-G-424091

そしてこの作戦も終了に近づいた11月20日、約5カ月間戦闘に明け暮れたCV-45ヴァリー・フォージとCVW-5に帰国の時期が訪れた。CVG-45とCVG-5は、この日の戦闘を終えた後、朝鮮海域を離れ横須賀に向かった。そして補給と僅かの休息の後11月23日に横須賀を発ち、家族の待つサンディエゴへと舳先を向けた。サンディエゴに到着したのは、現地時間の12月1日であったが、ヴァリー・フォージには休息の時間すらなかった。中朝軍の反攻で朝鮮半島の戦況が厳しくなる中、CVG-5 を降ろし補給の後、CVG-2を搭載して再び12月6日にサンディエゴを出発、朝鮮海域を目指した。

CV-45 ヴァリー・フォージの帰還で空母の戦力が一時的に減少したが、その頃CVG-19を搭載したCV-37 “USS Princeton”が佐世保を目指していた。そして朝鮮での戦闘も止むことがなく、特に陸地での戦闘は過酷を極めた。季節も冬に向かい、陸上部隊には中国軍の反撃だけでなく、気象条件がその作戦行動に大きな影響を与えた。それでも占領した元山の港を利用して国連軍は次々に兵員を上陸させ北朝鮮の全域でクリスマス攻勢をかける。しかし11月26日の深夜を境に中国軍による反撃が強まる。東部戦線では-25℃という厳寒の中での戦闘が続き、一部で米軍が撤退を始めた。この中国軍の激しい反撃に対し、ワシントンではトルーマン大統領の緊急会見が行われ、原爆の使用も辞さない旨の発言が出された。それでも、共産軍の反撃は止まず、国連軍に被害が広がり、各所で撤退が始まった。


Badoeng Strait の凍った飛行甲板から氷雪を取り除く地上クルー
出典:US Navy Official Photo Archive NH97372

12月1日、日本では厚木にNAS Atsugiが発足。米海軍航空部隊の極東における拠点が動き出す。そして翌日、CV-37 プリンストンが佐世保に入港した。

12月3日、国連軍は平壌を放棄し、東海岸の元山港から国連軍を撤退させることを決定。早期に陸軍部隊を撤退させるため、極東艦隊の艦船が招集され、12月4日には多くの艦船が元山港周辺に集結し始めた。この撤退を支援するため、対潜任務に復帰していたCVE-118 シシリーもグアムから呼び戻され、12月7日には再びVMF-214が、シシリーの艦上にあった。そして12月10日には海兵隊初のジェット戦闘機部隊であるVFM-311が北朝鮮のYonpo飛行場に到着し、戦闘準備に入るとともに、米軍と韓国軍の歩兵が元山からの脱出を完了する。12月13日には、F-86Aを輸送してきた軽空母CVL-29 バターンに海兵隊の戦闘飛行隊VMF-212が搭載され、近接支援を行うことになった。

一方ニューヨークでは、12月13日の国連総会政治委員会で朝鮮紛争の停戦決議案を優先的に討議することが賛成多数で決議され、政治的決着への第1歩が踏み出された。しかし朝鮮半島での戦いは、ますます中朝軍の攻勢が強まり、国連軍は撤退の一方となり、12月15日には、東部地区で戦っていた第1海兵師団が興南から撤退を完了。また中部、西部地区で戦っていた国連軍も全軍、38度線以南へ撤退を終えた。しかし、国連軍を追ってきた中国軍も38度線を越境し、南進してきたため、12月16日になってトルーマン大統領は国家非常事態宣言を発令、北米大陸の防衛軍を朝鮮半島へ派遣すると宣言した。

38度線上では、国連軍と中朝軍との戦闘が続いていたが、空の上の戦闘でも新たな展開がみられた。日本から336FISのF-86Aが12月15日に金浦飛行場に降り立った。米空軍の動きは早く、12月の17日には、F-86Aの飛行隊に最初のミッションが与えられた。それは、鴨緑江の南地区を偵察するミッションであったが、早くも中国軍のMiG-15の4機編隊と遭遇。両編隊は空戦に入り、336FIS のBruce H. Hinton中佐がそのうちの1機を撃墜し、朝鮮戦争でのF-86としての初のスコアを挙げた。残る12月中に4FIWのF-86Aは、トータル76ソーティをこなし、敵機8機を撃墜、1機を失った。4FIWのパイロット達は、まだ十二分にF-86の操縦に慣れてはいなかったが、彼らの大半は、第二次大戦中欧州戦線で活躍した歴戦の勇士たちで戦闘には十分な経験を有していた。この後もMiG-15に対するF-86の優勢が続くが、その原因はこんなところにあった。


編隊を組んでパトロールする51FIWのF-86E
出典:National Archives and Records Administration

陸上では38度線を挟んでの、中朝軍と国連軍の間で戦闘が継続していた。そして12月22日に均衡が破れ、再び中朝軍が38度線を越え、韓国内へ侵攻を始めた。このため、韓国政府はクリスマス・イブの12月24日にソウル市民に対し、避難命令を出す。これを受けた市民は南へ移動を始め、またまた韓国内は大混乱となり、年の瀬を迎えるころには釜山は避難民で溢れかえった。25日に米国防総省は、米軍と韓国軍や機材、それに加えて9万人の朝鮮人の撤収を完了したと発表した。これで、戦線は38度線付近に戻ったわけであるが、中国軍の介入により国連軍の敗北は明らかであり、失意のうちに年が明けようとしていた。

年は明けて1951年、新年初日から中朝軍の攻撃は始まった。両軍合わせて約50万人の軍勢が三度38度線を越境し、南進する。国連軍は徐々に後退し、1月4日にはソウルを放棄、15日には中朝軍がソウルを手中に収める。国連軍は体勢を立て直すため、1月20日には37度線まで撤退した。しかし圧倒的に優勢な航空勢力を保持する国連軍は、1月25日に反撃に転じる。こうした38度線を挟む攻防は、この後も幾度となく繰り返され、朝鮮半島の随所で多くの血が流された。
さて海軍の空母群は、戦闘が膠着状態に入ったこともあり、長期間戦闘に参加していた部隊を本国へ帰還させることになった。まず、1月16日に、50年の8月から戦闘に参加していたCVE-116 バーデン・ストレートとCVE-118 シシリーが、それぞれ搭載していたVMF-323とVMF-214を日本の伊丹飛行場に向かわせ、本国への帰途に就いた。またその10日後の1月26日に、CV-32 レイテが本国へ向かった。この穴を埋めるためTF77に合流したのが、一時的に離れていたCVL-29 バターンと香港で休養していた英海軍の軽空母HMSシージェスであった。そして2月14日、極東空軍から極東海軍司令部へ、北東部の海岸地帯に対する侵攻の依頼が届いた。これは空軍機の足の問題で、日本海に陣取る海軍艦艇や空母からの攻撃に期待したものである。そして16日に極東海軍司令部は第7艦隊に対し北朝鮮北東海岸部の攻撃命令を出した。これに対し艦載機による道路、鉄道など輸送網に対する攻撃が開始された。また艦艇からの艦砲射撃も加えられ、特に3月14日から19日までの戦艦ミズーリーも加わっての艦砲射撃では8つの鉄道用鉄橋と、7つの高速道の鉄橋の破壊が確認された。そうして3月の27日、休みなく戦ったCV-45 ヴァリー・フォージが、CVG-101を搭載してきたCV-21 ボクサーと交替し、帰国することになった。帰国にあたり、ヴァリー・フォージは搭載していた比較的戦闘期間の短いCVG-2とフィリピン・ジーのCVG-11とを載せ換え、CVG-11を搭載して帰国の途に就いた。


CV-47 Philippine Seaへの緊急着艦に失敗、クラッシュした、CVE-115 Bairoko搭載のTBM-3S(VS-21)
出典:US Navy Official Photo Archive 80-G-439890

一方陸上では、2月の28日には国連軍の防衛線がソウルのすぐ南にまで上がり、3月14日には中国軍がソウルを放棄し、北に撤退。その後を追って3月15日には国連軍がソウル入りを果たした。そして3月19日には、中朝軍が38度線の北側に撤収することになる。これで戦争は振り出しに戻るが、戦闘は一向に収まる気配を見せなかった。そんな膠着状態の中、4月11日に突然マッカーサー元帥が、GHQ最高司令官と国連軍最高司令官の職を解かれた。そして後任に米陸軍第8軍の司令官、リッジウェイ中将が任命される。マッカーサー解任の理由は、彼がワシントンの指示に従わず戦争を拡大の方向に持っていったこと、中国への攻撃も辞さないこと、そして彼が解任される直前、ワシントンのジョセフ・マーチン共和党議員に宛てた手紙の内容にあった。

その手紙には、「アジアの共産化は何としても防がねばならない。我々にはそれだけの力がある。もし我々がアジアで負ければ、ヨーロッパの共産化も明々白々である。ヨーロッパの平和がこの戦争にかかっている。」の意味の内容が書かれてあった。

マッカーサーの強い意志がこの手紙に反映されていた。これを目にした米国首脳には、最後の手しか残っていなかった。

マッカーサー解任は、何より彼が統治した日本国民に衝撃となって伝わった。4月16日、マッカーサーが東京を離れる日、彼の自宅から羽田空港までの約20kmの沿道では、約25万の人々が彼を見送った。そして午前7時23分、マッカーサーは専用機「バターン」号で帰国の途に就いた。


解任され東京のGHQ本部を去るマッカーサー元帥
出典:YOMIURI ONLINE

マッカーサーは帰国後、1951年4月19日にワシントンの上下院合同会議に出席し、そこで退任の演説を行っているが、彼のウェストポイント時代に人気の高かったバラードの1節を引用し、
「・・・・それは誇り高く、こう歌いあげています。『老兵は死なず。ただ消え去るのみ』と。
そしてこのバラードの老兵のごとく、私も今、私の軍歴を閉じ消え去ります。神が光で照らされた任務を果たそうとした1人の老兵として。
さようなら」
と締めくくった。
(この章終わり)

本章に関連する機体の塗装
 (出典:WINGS PALLETE http://wp.scn.ru/en/)



© Darko Borovec
MiG-15 Fagot of PLAAF in 1950



© Don Greer, ‘P-80 Shooting Star T-33/F-94 in action’,
A Squadron SignalPublications
Lockheed F-80C Shooting Star of 16 FIS, 51 FIW, Suwon AB Korea in 1951



North American F-86A Sabre of 336 FIS, 4 FIW, Korea in 1950



© Michael E. Fader, www.wings-aviation.ch
Grumman F9F-2B Panther of VMF-311, Phohang AB Korea in 1950



© M.David Howley,
‘Hawker Sea Fury’, Warpaint, W.A. Harrison

Hawker Sea Fury FB.11 off Korea in 1950


 Home > グラビア >   CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 第5話 

Vol.10 2009 Nov.        www.webmodelers.com /Office webmodelers all right reserved /editor Hiromichi Taguchi 田口博通
  無断転載を禁ず  リンクフリー
「webモデラーズ について」


資料記事

TOTAL PAGE