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CARRIER
AIR WING FIVE
CVW-5
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Part 11 Rev.C Photo. U.S. NAVY
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by Kiyoshi Iwama |
(Rev.C改訂版 2012年1月8日掲載)
“Tip of the Sword” 、CVW-5のハンガーに描かれた彼らのスローガンである。空母を守る剣の先は、彼ら自身であり、「剣の先の如く鋭くあれ」と戒めている。またそれは遠く母国を離れ、太平洋の西岸に置かれた剣の先をも意味するように思われる。海外を拠点とする米海軍唯一の空母航空団としてCVW-5が厚木基地に本拠地を置いて、35年が過ぎた。その間、飛行隊の編成や使用する航空機も大きく変わり、その年月の長さを感じさせる。もう少しで在日40年を迎えるが、そのとき彼らは、その記念日を岩国基地で迎える。
我々飛行機ファンを大いに楽しませてくれたCVW-5であるが、厚木基地での活動も残り少なくなった。これを機会に、CVW-5のこれまでを振り返ってみたい。
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これまでのあらすじ
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第11話 ヴェトナム戦争(中編-3)
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いつ終わるとも知れない戦闘が続く中で、和平を模索する動きが出てきた。1968年3月31日に、ジョンソン米大統領は北爆の部分的停止を発表し、和平会談を呼びかける。しかしその後も両軍の戦闘は激しさを増す一方であったが、5月3日になって北ヴェトナムは和平会談を受諾し、パリでの開催を提案した。アメリカ側もこれを受諾し、5月10日の予備会談に続き、13日には第1回の平和会談がパリの国際会議センターで始まった。しかし両者はお互いに相手方の撤退を主張し、解決の道は拓かれず、会談は長期化する様相を呈した。その一方で、戦闘は止むことなく北ヴェトナム軍に支援されたヴェトコンは、サイゴンをはじめとする南ヴェトナムの各都市で攻勢をかけた。このため米軍は、2月の半ばから攻防戦が続いていたケ・サンを放棄し、撤退することが、6月27日に米軍司令部によって発表された。 |
ケ・サンの飛行場でタキシング中に共産軍の砲撃を受け炎上する米空軍のC-123輸送機
出典: AP通信社
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ケ・サンからの撤退は米軍に大きな衝撃を与えた。またその後も北ヴェトナム軍とヴェトコンによるゲリラ的襲撃が後を絶たず、彼らを悩ませた。7月4日の独立記念日にはヴェトナム派遣軍の規模は53万7,000名に達したが、その2カ月あとの9月5日に発表された米軍側の人的損害は、戦死者2万7509名、負傷者・行方不明者合わせて20万215名にも上がった。そして10月31日、ジョンソン大統領は、北爆の全面停止を発表するとともに、南ヴェトナム、及び南ヴェトナム解放戦線(ヴェトコン)を含む4者会談の開催を提案した。ヴェトコン側はこれを受諾したが、南ヴェトナムだけは当初参加を拒否、11月27日になってようやくこれに応じた。こうしてようやく、4者による平和会談が実現することになる。
北爆の全面停止により、航空戦の中心は南ヴェトナムとラオスへと移動した。また北爆は停止されたものの、米空・海軍は北ヴェトナムへの偵察ミッションを強化した。空軍は戦術偵察機のRF-4Cを投入したが、北ヴェトナムの対空火器からの防御のためRF-4CにECMポッドを搭載させ、後席のパイロットに代わり、WSO(Weapon System Officer)を載せた。また3月には戦略偵察機のSR-71Aが投入され、3月21日に最初のミッションを行っている。SR-71は沖縄の嘉手納基地に配備され、ここからミッションを行った。70,000ft以上の高空をマッハ3で飛行するこの偵察機には、北ヴェトナムも打つ手がなく、SR-71Aは有益な写真情報をもたらした。
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第9偵察航空団のSR-71A。ヴェトナムへは嘉手納から進出した。
出典:USAF
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一方海軍は、偵察機としてRF-8A/G、RA-3B、RA-5Cを投入していた。いずれの機体も空軍の偵察機同様武器を携行できないため、リスクの高い飛行が強要された。相手のSAMも手の届かない超高空を飛行するSR-71Aと異なり、低空での写真撮影は、速度とパイロットの技量のみが地上砲火を回避できる唯一の手段であった。しかし高速で飛行したとしても撮影時は直線飛行が主体となり、地上から狙い撃ちされるケースが頻発した。こうした厳しい環境でのミッションであったが、大型のRA-5Cは、統合作戦情報センター(IOIC:
Integrated Operational Intelligence Center)を備える、フォレスタル級の大型空母で運用された。このIOICは、偵察機が持ち帰ったフィルムを10分以内で処理する能力を有し、情報の分析処理速度を大きく改善した。
そして1969年に入った1月14日、ハワイからヴェトナムに向かう海軍の最新鋭原子力空母CVAN-65 “USS Enterprise”で火災が発生した。飛行訓練中にF-4Bが搭載していたズーニ・ロケット弾が誤発火し、艦載機に延焼、28名の人員と航空機15機が失われた。このため空母エンタープライズはハワイに引き返し、火災による破損個所の修理を受けることになった。フォレスタルに続く、大型空母の火災事故は海軍の作戦にも影響を及ぼす。この事故の直後の1月20日、大統領選への出馬をあきらめた民主党のジョンソン大統領に代わり、第37代の米国大統領となるリチャード・ニクソンの大統領就任式が、首都ワシントンで開催された。こうした中、新たな体制下で、米国、南ヴェトナム、北ヴェトナム、ヴェトナム解放戦線(ヴェトコン)の4者による和平会談が1月25日からパリで再開されることになった。新政権で安全保障担当大統領補佐官に就いたのが、後々和平交渉で鍵を握ることになる、ヘンリー・キッシンジャーである。ニクソン大統領は、戦争の終結と米軍の早期撤退を1つの目標に掲げた。このため、強力な南ヴェトナム軍の構築と北ヴェトナムへの一層の打撃を与えることで、南で活動を続けるヴェトコンの一掃と和平交渉の早期成立が図れるものと考えた。こうしたことから3月17日にはカンボジアを経由してヴェトコンに物資の供給を続ける北ヴェトナム軍のカンボジア内拠点に対し、B-52による隠密爆撃を強行させた。
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出火後、消火活動に追われる空母エンタープライズの後部飛行甲板。A-7の残骸が見える。
出典:US Navy Official Photo Archive
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丁度この頃、CVA-31空母ボン・ノーム・リチャードとともにCVW-5は、横須賀に向けカリフォルニア州サンディエゴの軍港を後にした。CVW-5では1968年の10月に飛行隊の再編があり、3個攻撃飛行隊のうち2個飛行隊が交代していた。具体的にはVA-93とVA-212が去り、新たにVA-22とVA-144がCVW-5の一員となった。この時の編成を表11-1に示す。 |
表11-1 1969年3月18日~1969年10月29日の西太平洋/ヴェトナム展開時のCVW-5の編成
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ボン・ノーム・リチャードとCVW-5は4月8日に横須賀に入港し、13日まで滞在、その後フィリピンのスビック・ベイへと向かった。そして4月17日にヤンキー・ステーションへ向け、スビック・ベイを発っている。北爆が停止されていたため、ヤンキー・ステーションに展開した空母ボン・ノーム・リチャードとCVW-5のミッションは、南北ヴェトナムの国境地帯に設けられた非武装地帯や、カンボジア、ラオスでの地上軍への支援攻撃に従事した。一方、4月30日には駐留ヴェトナム米兵の数が543,400名となりヴェトナム戦争中のピークとなる。 |
南シナ海を遊弋するCVA-31 “USS Bon Hoome Richard” とCVW-5(1969年6月13日)
出典: US Navy Official Photo Archive
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こうした中、極東でまたもや事件が起こった。1年前に米海軍の情報収集艦プエブロ号が北朝鮮に拿捕される事件が起こったが、今度は同じく米海軍の電子情報収集機EC-121M(Bu.No.135749/
PR21)が北朝鮮軍のミグ戦闘機に撃墜される事件が発生。1969年4月15日0700に厚木基地を飛び立った第1艦隊航空偵察飛行隊VQ-1のEC-121Mは一路日本海を目指し北上した。日本海に出た後、進路を西北西にとり、北朝鮮の沿岸から90NM離れた周回コースへと向かった。12時半過ぎ、EC-121が北朝鮮沿岸のミッション開始点に到着したとき、北朝鮮空軍のミグ機がスクランブル発進する。地上サイトからEC-121にミグ機の接近が告げられたが、13時45分頃、EC-121は背後から機銃を受け、撃墜された。EC-121との通信が途絶えたため、韓国Osan基地から2機のF-102A
がスクランブル発進し、日本海ヘと向かう。また日本の立川基地からはHC-130が捜索救難に発進する。しかし、翌早朝、海軍のP-3A哨戒機が現場付近で機体の残骸の一部を発見、マーカーを投下した。その後さらなる航空機や艦船が投入され、捜索救難活動が続けられたが、2遺体を回収できたのみで、残る29名の生存が確認できないまま、19日の19時をもって捜索は打ち切られた。 |
米海軍厚木基地で撮影された、撃墜された機体と同型のVQ-1のEC-121M(143186/PR21)
出典: San Diego Air & Space Museum Archive - Lockheed Constellation Military
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ヴェトナムでは北爆停止の状態が続いていたが、相変わらず南ヴェトナム内でのヴェトコンのテロ活動が頻発した。このため、ヴェトコンへの支援物資の補給路となっているホー・チ・ミン・ルートやラオス、カンボジアでの補給拠点に対し、空軍の特殊戦部隊のAC-47、AC-119、AC-130といったガンシップ機による攻撃が繰り返し実施された。同様に海軍にもこれに相当するユニークな部隊があった。それは1967年から68年にかけてタイのナコン・ファノム(Nakon
Phanom)をベースに特殊戦用に改造されたOP-2Eを装備して戦った第67観測飛行隊VO-67と1968年から69年にかけて南ヴェトナムのカム・ラン・ベイ(Cam
Ram Bay)海軍施設を拠点に活躍した、特殊戦機AP-2Hを装備した第21重攻撃飛行隊(VAH-21)であった。このOP-2EとAP-2Hの特徴は対潜水艦作戦用の機材を外し、代りに音波探知装置を搭載し、北ヴェトナム軍やヴェトコンの侵入経路に沿って小型のマイクロフォンを撒き散らし、マイクロフォンが捕らえた音波信号から敵を見つけ出し攻撃するものであった。またAP-2HはTRIM(Trails
and Roads Instrumentation)と呼ばれる電子光学装置を装備しており、夜間での活動も可能にした。いずれもユニークなミッションをこなしたが、ジャングル上空を低空で飛行するため、小火器で撃墜されることもあり、短期間の展開で終わっている。
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ヴェトナム上空を飛行するVAH-21のAP-2H
出典: VAH-21(http://www.verslo.is/baldur/p2/vah21.htm) |
さて、8月に入るとヘンリー・キッシンジャー国家安全保障担当補佐官がニクソン大統領の密命を帯び、パリでハノイ代表団と停戦のための秘密会談を開始した。すでに7月8日には地上部隊の最初の撤兵が始まっており、陸軍の第9歩兵師団から800人の兵隊が帰国の途に就いてた。こうした背景から交渉は前進すると思われたが、8月12日に南ヴェトナムの150か所で、ヴェトコンが新たな攻撃を仕掛けた。こうしたヴェトコンの攻勢に対抗するため、米軍はホー・チ・ミン・ルートへのB-52による爆撃を加える。一方でニクソン大統領は、国内での反戦運動の高まりもあり、9月16日には35,000名、12月15日には50,000名の帰還命令を出す。
1970年に入ると米国ではますます嫌戦ムードが高まり、一方南ヴェトナムではヴェトコンの攻勢が続いた。ニクソン大統領はこれに対抗するため、2月に入るとホー・チ・ミン・ルートの攻撃に再度B-52を駆り出した。こうしたことから2月21日にはパリ和平会談が暗礁に乗り上げる事態に陥る。しかしその一方でキッシンジャー補佐官と北ヴェトナムのレ・ドゥク・ト(Le Duc To)との間で、停戦への秘密会談が進められた。(結局この会談は2年間続き、1973年の停戦への合意につながる)4月20日にはニクソン大統領が、150,000人のヴェトナムからの撤兵を表明、米軍の規模縮小が加速化されていく。このため、航空機、艦船、武器などが米軍から南ヴェトナム軍へ供与され、南ヴェトナム軍の強化が図られた。これは南ヴェトナム軍が米軍を肩代わりし、東南アジアでの米軍の役割に幕を引く、所謂”Vietnamization”策の一環であった。航空機ではA-37A/BやA-1Hに次いでF-5A/Cが供与され、南ヴェトナムの空軍力の強化が進められる。
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トラクターにけん引される南ヴェトナム空軍のF-5A戦闘機
出典: 不明
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さて本国に戻っていたCVW-5は、4月16日に空母ボン・ノーム・リチャードに載ってサンディエゴを発ち、6度目のヴェトナム戦に向かった。今回はハワイに立ち寄り、若干の訓練と休養の後、フィリピンのスビック・ベイへ直行した。ボン・ノーム・リチャードは今回のクルーズの後、退役することが決まっており、CVW-5にとってもこれがエセックス級空母との最後のクルーズであった。そして自身にとっても、帰国後には大きな再編が控えていた。そのこともあり、今回のヴェトナム展開は、VA-94とVA-144が機種をA-4Fにアップグレードした以外は、前回と同様の編成で行われた。
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表11-2 1970年4月2日~1970年11月12日の西太平洋/ヴェトナム展開時のCVW-5の編成
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CVW-5の攻撃飛行隊は依然A-4Fを使用していたが、ほぼ同時にヴェトナム沖に展開した空母CVA-66 “USS America”に搭載されていたCVW-9には、新鋭のA-7Eを装備するVA-146とVA-147が配備されていた。A-7
“Corsair II”は既にB型までがヴェトナムに投入されており、その運用成果を見極めた空軍がA-7をF-100の後継として採用した。これがA-7Dで、ヴェトナムでの運用実績をもとに改良が施され、エンジンもパワーアップしたTF41-A-1に換装し、アビオニクスにも改良が施された。さらに固定武装をMk12
20mm 機関砲からM61A1バルカン砲に換装し、装甲も強化された。A-7EはこのA-7Dの海軍型とも言うべきバージョンで、エンジンをさらに推力の高いTF41-A-2とし、兵装搭載量も増大していたが、A-7Eが運用部隊で最も評価されたのは、その爆撃精度の高さと整備の容易性であった。 |
CVA-66 “USS America”に搭載されたVA-146のA-7E Corsair II
出典: 不明
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北爆の無くなった航空戦力のミッションは、空軍も海軍も、南ヴェトナムへの北ヴェトナム軍の侵入ルートやヴェトコンの拠点への攻撃が中心であった。敵陣では強力な対空砲火に見舞われ、また夜間のミッションが増えるに連れ、パイロットたちには自然とストレスが増えていった。こうした中、地上部隊の撤退は確実に動き出し、6月30日にはカンボジアに展開していた米地上軍が撤退を開始、そして11月末には駐留ヴェトナム米軍の数は334,000名にまで減少した。
一方ボン・ノーム・リチャードとCVW-5は、10月の20日には戦線を離れ10月22日にスビック・ベイに入港した。ここで1週間ほどの休養を取り、10月29日にスビック・ベイを出発、一路西海岸を目指し、11月12日にサンディエゴに帰還した。その後、ボン・ノーム・リチャードは翌1971年の7月に退役が決まり、一方CVW-5は、1966年2月より2度目の近代化改修SCB-101に入り、1971年1月に改修を終えるCVA-41“USS Midway”への搭載が決まった。
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VQ-130のEAK-3Bから給油を受けるVF-53のF-8J
出典: US Navy Official Photo Archive
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