F-86の成功を収めたノースアメリカン社は次にF-86の超音速化を検討していた。
当初はF-86D(セイバードック)の主翼と尾翼45°の角度にした物であったが1950年に勃発した朝鮮戦争でMig-15と遭遇すると急きょこれを超える性能を持つ機体の開発が急がれた。
当初のF-86の設計を流用した機体とは全く異なり当時最新鋭の空気力学に基づいた低翼配置の細いクサビ型の胴体を採用した機体として開発され1953年5月25日YF-100Aとして初飛行した。
アメリカ空軍初の超音速戦闘機としてF-100Aとして1954年9月に採用されたがダイブ中に操縦不能に陥る事故が多発し一時飛行停止になるも改修を施され203機生産された。
F-100Aは20mm機関砲4門で機外搭載能力は無しと言う限定的な制空戦闘機で有った為エンジンをパワーアップし翼下に6つのハードポイントが取りつけれたF-100Cが1955年に初飛行しA型と随時更新されていった。
C型の成功後、戦術核兵器を搭載できる本格的な戦闘爆撃機型であるF-100Dも開発が進められていて1956年1月に初飛行した。当時の米ソ冷戦時代を反映してこの機体がF-100Dの主力生産型となりアメリカ空軍・フランス・デンマークに採用され西側陣営の戦術機の一翼を担った。
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アメリカがベトナムの内乱に介入する以前にすでに隣国のラオスで共産軍に対する秘密軍事作戦が行われており空軍も輸送や地上攻撃などの支援活動を行っておりタイに配備されていたF-100もラオスへの航空攻撃に参加していた。
1964年に「トンキン湾事件」により北爆が開始されると爆撃ミッションのF-105をエスコートする名誉あるミッションに就くがF-100のエスコートを潜り抜けたMig―17によりF-105が撃墜されると言う屈辱を浴びた以降エスコートミッションから外され主に南ベトナム内の共産軍攻撃に当てられた。地上部隊のへの航空攻撃支援と言う当時の空軍としては最も危険なミッションではあったが共産軍の攻撃から孤立する地上部隊からは大変な感謝を受けた。F-100の南ベトナムでの地上攻撃ミッション(南爆)は南ベトナムで活動する攻撃機の中では最多のミッション回数を誇りアメリカの地上部隊がベトナムの地を離れる最後の時までその任務を全うしたのである。
F-100D諸元
全幅:11.83m
全長:15・04m
全高:4.93m
全備重量:15.445kg
エンジン:J-57-P-21
推力 : 4.627kg
アフターバーナー推力: 7,258kg
最大速度:1,465km(高度10,700m)
戦闘半径:860km
装備品:Mk39・20mm機関砲×4
ハードポイントに1,810kgの爆弾及びミサイル
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