Home >今月のハイライト> CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 第14話 


CARRIER AIR WING FIVE

CVW-5

Part14                                  Photo. U.S. NAVY

by Kiyoshi Iwama

Tip of the Sword” 、CVW-5のハンガーに描かれた彼らのスローガンである。空母を守る剣の先は、彼ら自身であり、「剣の先の如く鋭くあれ」と戒めている。またそれは遠く母国を離れ、太平洋の西岸に置かれた剣の先をも意味するように思われる。海外を拠点とする米海軍唯一の空母航空団としてCVW-5が厚木基地に本拠地を置いて、35年が過ぎた。その間、飛行隊の編成や使用する航空機も大きく変わり、その年月の長さを感じさせる。もう少しで在日40年を迎えるが、そのとき彼らは、その記念日を岩国基地で迎える。
我々飛行機ファンを大いに楽しませてくれたCVW-5であるが、厚木基地での活動も残り少なくなった。これを機会に、CVW-5のこれまでを振り返ってみたい。

これまでのあらすじ

資料記事
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 第13話(Rev.B) 日本へ 
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 第12話(Rev.C) ヴェトナム戦争(後編)
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 第11話(Rev.C) ヴェトナム戦争(中編-3)
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 第10話(Rev.C) ヴェトナム戦争(中編-2)
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 第9話 ヴェトナム戦争(中編-1)
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 第8話 ヴェトナム戦争(前編)
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 第7話 東西冷戦、朝鮮戦争後
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 第6話 朝鮮戦争(後編)
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 (第5話)朝鮮戦争(中編)
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 (第4話)朝鮮戦争(前編)
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 (第3話)朝鮮戦争勃発
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 (第2話)ジェット時代の夜明け
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5(第1話)誕生

第14話 再び平和に

ヴェトナムでの戦いは米国に大きな財政的負担を残すとともに、国の威信をも揺るがした。勿論ヴェトナムを始め、東南アジアの周辺諸国にも大きな傷跡を残した。しかし1976年に入ると、ようやく明かりが射し始める。1976年は米国の建国200年にあたり、米国内は勿論、海外の米国関連施設や米軍基地では、建国200周年を祝う祝祭ムードで盛り上がっていた。

実はこの建国200年祭、所謂”Bicentennial Celebration”は、ヴェトナム戦争が始まって間もなく、1966年7月4日の建国記念日に米国議会が建国200年記念委員会を設け、計画をスタートさせたのが始まりである。以降紆余曲折があったが、1973年12月11日に議会が再び、米国独立革命200年祭局ARBA(American Revolution Bicentennial Administration)なる組織を創設し、全国規模の祝祭行事を進めることになった。民間でも数多くのイベントが計画、実行されたが、陸海空3軍と海兵隊でも、使用する航空機にこぞって記念の特別塗装を施した。CVW-5でも同様に各飛行隊にスペシャルマーキングの機体が現れた。


バイセンテニアル公式マーク
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このような特別な年の1976年であるが、空母ミッドウェイとCVW-5は3月13日から4月26日の間、西太平洋に展開した。しかし6月に在韓米軍と韓国軍が実施する合同演習”Team Spirit ‘76”(Team Spiritはこれが初回の演習であった)に参加するため、帰還後間もない5月19日にミッドウェイは機動部隊の他の艦船とともに横須賀を出港、CVW-5は厚木をフライ・オフしている。朝鮮半島では、韓国全土で実戦さながらの演習が繰り広げられ、CVW-5の艦載機は爆撃ミッションや電子戦ミッションに参加した。チーム・スピリット ‘76参加時のCVW-5の編成を表14-1に示す。

表14-1 1976年5月19日~1976年7月22日の西太平洋展開時のCVW-5の編成

そしてチーム・スピリットでの演習を終えたCVW-5とミッドウェイ機動部隊は、独立記念日前の6月22日に日本へ帰還した。CVW-5の航空機がフライ・インした米海軍厚木航空施設では、独立記念日の7月4日に基地の一部が市民に開放され、バイセンテニアル・マーキングの機体を含め、数機が基地内の道路に展示された。





1976年7月4日の独立記念日に一般公開された厚木基地内で道路に展示された、
バイセンテニアル・マーキングのVF-151のF-4N(150452/ NF201)(上段)とVA-56のA-7A(152673/ NF300)(下段)
写真:筆者撮影

そしてその5日後の7月9日、CVW-5は空母ミッドウェイとともに慌ただしく西太平洋へのクルーズに出発した。しかしこのクルーズは短く、8月4日には帰還している。この後3カ月ほどはミッドウェイの補修のため、CVW-5は国内での訓練に時間を費やし、11月1日から12月17日にかけこの年最後の西太平洋展開を行っている。


日本での休息時に入間基地で開催された国際航空宇宙展に展示された、VAW-115のE-2B。
当時航空自衛隊のF-X選定時期にあり、F-14やTF-15も参加した。バックにVF-2のF-14Aが見える。(1976年10月21日)
写真: 筆者撮影

1977年は、多くの事故に見舞われた。1月11日に始まったこの年最初の日本海、東シナ海での訓練クルーズ2日目の1月13日に、沖縄北方250nmを航行中のミッドウェイ艦上から、VA-56のA-7A(Bu.No.152655/ NF410)が海に落下し、グランドクルー1名が亡くなるという事故が起こった。また4月19日から始まる2度目のクルーズに先立って行われた訓練航海時の3月30日、日本海を航行中のミッドウェイから発艦しようとしたVA-93のA-7A(Bu.No.153181/ NF311)がカタパルトの故障で発艦に失敗、パイロットはベイル・アウトしたが、シートが体からはずれず、海中に水没し死亡するという事故が起こった。

さらに9月27日にフィリピンのスビック・ベイに向け横須賀を発ったこの年最後のクルーズでも、初日に大きな事故が起こった。横須賀を出港した空母ミッドウェイに向かうため、厚木基地を離陸したVMFP-3 Det.2のRF-4B(Bu.No.153102/ NF611)がエンジン火災を発生、パイロットと偵察士官は横浜市内上空で緊急脱出し、無事救助された。しかし、制御を失った機体は住宅地に墜落。このため、周辺住宅に火災が発生し9名が負傷し、全身火傷を負った2名の男児が翌日死亡するという傷ましい事故となった。

なおCVW-5は後述するように3度目のクルーズの前に戦闘飛行隊と攻撃飛行隊の機種更新を行っている。この時の編成を表14-2に示す。

表14-2 1977年9月27日~1977年12月21日の西太平洋展開時のCVW-5の編成

CVW-5とミッドウェイ機動部隊はスビック・ベイを経由してインド洋まで展開、オーストラリア、パキスタンに寄港後、11月11日から11月19日にかけて、イランの近海でイラン、パキスタン、トルコ、英国、そして米空軍が参加しての演習、”MIDLINK ‘77”に加わった。こうした敵味方に分かれての演習では、VAW-115のE-2Bが要撃管制任務に就き、上空から敵機の状況を認識し、味方戦闘機を要撃ポイントへと誘導した。”MIDLINK ‘77”が終わった後も、ミッドウェイ機動部隊とCVW-5は英国海軍、オーストラリア海軍との演習”Exercise Compass”や”Operation Indian Ocean”、”Operation South China Sea”などの訓練をこなしていった。そして”Exercise Compass” 実施中の11月25日には、ソ連のベアが2機偵察に現れ、CVW-5のF-4Jが要撃にあたるという緊張する瞬間もあった。こうした数々の演習、訓練を終えての日本への帰路、再び事故が起こった。訓練から戻ってきたVA-115のKA-6D(Bu.No.151795/ NF522)が着艦寸前にミッドウェイのランプに激突したのである。パイロットと爆撃航法士は間髪置かず脱出、着水し、荒れる海面から無事助け揚げられた。

このように事故の多い1977年であったが、一方で機種の更新が図られた。二度目のクルーズの後の8月に戦闘飛行隊のVF-151とVF-161がF-4NからF-4Jへ、そして攻撃飛行隊のVA-93とVA-56がA-7AからA-7Eへ、またVA-115がA-6A/BからA-6Eへと更新され、装備の近代化が図られた。A-6Eに装備を更新したVA-115は、機種の更新に合わせ飛行隊のニックネームを”Arabs”から”Eagles”に変更している。(公式の変更期日は翌年の1978年3月1日付となっている。)

1978年の2月、空母ミッドウェイとCVW-5は日本の海上自衛隊との大規模な共同演習を実施した。その後、一旦横須賀に戻り、3月2日には再び横須賀を出港、CVW-5とともに”Team Spirit ‘78”に参加するため韓国に向かう。3月7日から17日まで実施されたチーム・スピリット‘78は韓国、米国の陸海空、海兵隊の部隊が集結する戦後最大規模の演習となった。空母ミッドウェイは朝鮮半島西海岸に位置し、CVW-5の攻撃飛行隊がソウル近郊で戦闘を繰り広げる地上部隊を上空から航空支援した。この激しい演習が終了した後、CVW-5とミッドウェイは一旦日本へ戻り、その後4月11日から5月23日までの間、西太平洋へのクルーズを行った。帰還後ミッドウェイは整備のため横須賀基地でドック入りする。ドックでの整備中、換気システムから発火し、火炎がボイラーの煙道を通って急速に広がる様相を見せたが、幸いにも消火作業が素早く、大事故には至らなかった。そしてこの年の二度目のクルーズが11月9日から年末にかけて西太平洋近海で実施された。このクルーズで初参加したのが、その秋にEA-6Aに替って海兵隊岩国基地へ配備されたVMAQ-2 Det.-XのEA-6Bで、CVW-5に派遣され、12月にはミッドウェイに展開した。VMAQ-2は”Playboys”のニックネームで知られ、その名の通り、成人向け雑誌”PLAYBOY”のシンボルマークであるボウ・タイを付けたウサギを尾翼に描いていた。この時期のCVW-5の編成を表14-3に示す。


表14-3 1978年11月9日~1978年12月23日の西太平洋展開時のCVW-5の編成


空母ミッドウェイの飛行甲板上のVMAQ-2 Det.-XのEA-6B
出展: http://www.cedu-diver.com/vmaq2.htm





バニーが描かれたVMAQ-2のクルー用ヘルメット
出展: http://www.cedu-diver.com/vmaq2.htm

1979年の年が明けて早々の1月11日、空母ミッドウェイは横須賀基地を後にした。そして、房総沖で厚木基地から飛来するCVW-5の艦載機を回収したミッドウェイは、韓国で行われる米韓合同軍事演習”Team Spirit ‘79”に参加するため日本海方面へと向かった。この演習の最中、多くのソ連機が偵察に訪れ、VF-151とVF-161のF-4JファントムIIが何度も迎撃に上がるシーンが見られた。この演習への参加は約半月で終了し、その後ミッドウェイとCVW-5は2月20日に日本に帰還する。


Team Spirit ’79 Exerciseで空母ミッドウェイから発艦するVA-56のA-7E(160542/ NF412)
出展: US DefenseImagery photo VIRIN, FD-ST-84-06930

一方前年の1月に、中東における親米国家、イランで起こった小規模な暴動が膨れ上がり、この,年の初めには全国規模の暴動へと発展した。この暴動は、パリに亡命中のイスラム教反体制指導者の一人であるアヤトラ・ホメイニ師を中傷した記事を巡り、ホメイニ師支持派が起こしたものであった。最初は小規模な暴動であったが、パーレビ国王の独裁的宗教軽視の体制への反感や不平等な社会体制に対する国民の不満が加わり、暴動がイラン国内全域へと広がって行った。この結果1979年1月16日にパーレビ国王(Shah)がイランを脱出、エジプトへ亡命した。シャーが国外に退去した後、2月14日にホメイニ師がパリから帰国するとイスラム教反体制勢力は一気に加勢し、4月1日に宗教指導者によるイラン・イスラム共和国を誕生させた。

丁度この時期、4月7日にインド洋に向け日本を出発した空母ミッドウェイとCVW-5は、その護衛部隊とともに南進し、南シナ海からインド洋へと入り、既にインド洋に展開していたCV-64空母コンステレーションの機動部隊と4月16日に交代した。そしてインド洋の作戦区域である“Gonzo Station”でのミッションを終えた後、6月18日に日本へ帰還、約2ヶ月の休息を得た。その後8月から9月にかけ再び西太平洋に展開し、その間8月に寄港した香港では、モンデール副大統領の表敬訪問を受けた。

さてエジプトに亡命した元イラン国王のシャーは、その後各地を転々とし、最後に米国へ亡命先を求めた。親米派のシャーを受け入れた米国に対し、イランでは反米色がますます高まり、11月4日にはテヘランの米国大使館へイスラム神学生らが乱入し、大使館を占拠、大使館員やその家族など63名の米国市民が人質となった。所謂、在テヘラン米国大使館人質事件である。彼らの要求はニューヨークの病院に入院したシャーをイランに直ぐに送り返すせというものであった。

一方香港から戻ったCVW-5と空母ミッドウェイの機動部隊は、9月30日に三度日本を離れ、西太平洋からインド洋へと展開していたが、イランでの人質事件が発生した後、中東に向かい、1979年11月18日にイランに近い北部アラビア海に到着した。11月19日と20日に、人質となった米国人の内10名が解放されたが、依然残る53名は囚われの身であった。

11月21日にはCV-63空母キティ・ホークがCVW-11を載せ、その機動部隊とともにインド洋に到着し、ミッドウェイの機動部隊と合流した。ミッドウェイとキティ・ホークからはCVW-5とCVW-11の戦闘機や攻撃機が飛び発ち、イランに対する威示行動を見せた。クリスマス前には日本に帰還するはずであったCVW-5とミッドウェイの機動部隊は、予定を変更し、ここで年を越すことになった。そして年が明けた1980年1月22日にはCVN-68空母ニミッツの機動部隊が到着した。インド洋に米海軍の3つの空母機動部隊が集まる事態となったわけであるが、インド洋でのこうした大規模な作戦は第二次大戦後では初めてのことであった。この後、CVW-5とミッドウェイ機動部隊は2月5日に、CV-43空母コーラル・シーの機動部隊と交代し、Gonzo Stationを離れ日本に向かった。日本への帰還は、2月20日のことである。



CVW-5を載せ、Gonzo Stationを遊弋するCV-41空母ミッドウェイ
出展: US Navy Official Photo


さて、米国大使館人質事件のその後であるが、米国は大使館が占拠されてすぐに人質の救出作戦の計画に入った。作戦名は” Operation Eagle Claw”。そして事件発生後5ヶ月が経った1980年4月24日の午後7時に作戦が開始された。CVN-68 空母ニミッツ(USS Nimitz)から発進した8機の掃海ヘリRH-53Dがイラン国境内の砂漠の給油ポイントDesert Oneに向け飛び発った。一方強襲部隊となるDelta Forceを載せた空軍の3機のMC-130Eと、RH-53Dへの給油用燃料を搭載した3機のEC-130Eがオーマンのマシラ島(Masirah Island)を離陸した。空母ニミッツからDesert Oneまでの飛行時間は2時間足らずの予定であったが、その間に2機のRH-53Dにトラブルが発生しミッションから離脱、6機のヘリコプターで目的地へと向かった。MC-130EとEC-130Eの編隊はほぼ時刻通りにDesert Oneに到着したが、ヘリコプターがランデブー・ポイントに到着したのは1時間以上後のことであった。この間にイラン人を満載したバスが通りかかり、急襲部隊はこれを拘束した。そこに6機のRH-53Dが到着するが、ここでもう1機に故障が発生。残るヘリコプターは5機となったが、5機では作戦の達成はほぼ不可能となる。この状況を知らされたワシントンは、ミッション・アボートの指示を出す。残ったメンバーは、拘束したイラン人たちを解放し、RH-53Dを処分した後、MC-130EとEC-130Eに分乗し、マシラ島へと撤収することとなった。しかし、1機のRH-53Eを移動させようとした時、突風が襲い、ホバリング中の機体は近くに駐機していたEC-130Eの1機と衝突、大爆発を起こし8名の乗員が死亡する不幸な事態となった。




CVN-68空母ニミッツの甲板上で出発を待つ海軍の掃海ヘリRH-53D(1979年4月24日)
出展: US Navy Official Photo


こうして人質奪還作戦は失敗に終るが、その上、数機のRH-53Dの破壊処理が完全でなく、極秘資料の一部が革命イラン軍の手に落ちるという結果となった。結局、人質たちはその後も拘束され、シャーが死亡したことにより翌年の1月20日にようやく解放された。

CVW-14とともにOperation Eagle Clawに参加していたCV-43 空母コーラル・シーは、作戦中止後アラビア海を後にし、フィリピンのスビック・ベイで休息をとった。そして本国に帰還する前に韓国近海に向かうよう指示を受ける。これは韓国内に暴動発生の恐れがあるという情報に基づくもので、韓国内の混乱に乗じた北朝鮮の侵略を案じての対処であった。空母コーラル・シーは、東シナ海を北上し、日本海に入り済州島の南の海域で待機した。

この時期韓国では軍事政権が続いていたため、民主化運動に揺れていた。1979年12月12日にクーデターを起こし、軍部の実権を握った全斗煥陸軍少将が80年5月17日に全国に戒厳令を敷いた。そして翌日の5月18日には、全羅南道の広州市で大学を封鎖した陸軍部隊とそれに抗議する学生との間で衝突が起き、これが発端となって一般市民を巻き込んでの市街戦に発展する。所謂光州事件である。結局武力に勝る軍部が、反体制派を抑え込み、5月27日に騒乱は鎮静化した。しかし報道統制によりこの事件の詳細は韓国国民には知らされなかったが、この事件で多くの市民が韓国軍の手により射殺されていた。

厚木基地では5月18日に三軍統合記念日の基地公開が行われ、CVW-5は艦載機の地上展示や飛行展示を行い、基地を訪れた多くの人たちとの交流を図った。その後、CVW-5は空母ミッドウェイとともに日本海に向かい、5月30日には済州島の南方海域に到着した。そこで韓国沖合で警護にあたっていた空母コーラル・シーと交代し、警護任務に就いた。しかし、幸いにも韓国内の騒乱が収まったこともあり、CVW-5とミッドウェイの機動部隊はほどなくこの海域を離れ、6月4日に日本に帰還した。そして、1ヵ月半後の1980年7月14日に再びインド洋へと向かうため、日本を離れる。この時のCVW-5の編成を表14-4に示す。


表14-4 1980年7月14日~1980年11月26日の西太平洋展開時のCVW-5の編成


表14-4にあるように、このクルーズからCVW-5に新たに加わったVAQ-136 “Gauntlets”が参加している。VAQ-136は、これまで海兵隊から支援を受けてきた電子戦を担う戦術電子戦飛行隊で、1973年に編成されている。1978年には、EA-6Bを能力向上したICAP-1機に機種更新しており、CVW-5にとっては頼もしい仲間の参入となった。VAQ-136の4機のEA-6Bは1980年2月23日にカリフォルニア州のNAS Whidbey Islandを出発、TRANSPACをして第1陣の2機が2月29日に厚木基地へ到着している。
                                                     (この章終わり)



厚木基地の一角に翼を休めるVAQ-136のEA-6B(1980年5月18日)
写真: 筆者撮影

本章に関連する当時のCVW-5の機体(この当時はCAG機以外でもカラフルであった。撮影:筆者)


1978年7月2日の横田基地のオープンハウスに展示されたVA-93のA-7E(160544/ NF301)



1978年7月2日の横田基地オープンハウスに展示されたVA-115のA-6E(159185/ NF512)



1979年5月20日の厚木基地三軍統合記念日に展示されたVF-161のF-4J(155835/ NF113)



1979年7月7日の横田基地オープンハウスに展示されたVA-56のA-7E(158828/ NF402)



1980年5月18日の厚木基地三軍統合記念日に展示されたVAW-115のE-2B(150534/ NF601)



1980年5月18日の厚木基地三軍統合記念日に展示されたVA-56のA-7E(160542/ NF412)
低視認塗装(Lo Visibility Scheme)のはしりか、文字が白色で描かれている



1980年5月18日の厚木基地統合記念日に異機種編隊飛行を見せるCVW-5のVF-151のF-4J、
VA-56のA-7E,そしてVA-115のA-6EとKA-6E



異機種編隊飛行のため厚木基地のR/W01を編隊で離陸するVF-151のF-4J(1980年5月18日)


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Vol.36 2011December   www.webmodelers.com /Office webmodelers all right reserved /editor Hiromichi Taguchi 田口博通
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