Home >CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 第22話 


CARRIER AIR WING FIVE

CVW-5

Part22                                  Photo. U.S. NAVY

by Kiyoshi Iwama

Tip of the Sword” 、CVW-5のハンガーに描かれた彼らのスローガンである。空母を守る剣の先は、彼ら自身であり、「剣の先の如く鋭くあれ」と戒めている。またそれは遠く母国を離れ、太平洋の西岸に置かれた剣の先をも意味するように思われる。海外を拠点とする米海軍唯一の空母航空団としてCVW-5が厚木基地に本拠地を置いて、35年が過ぎた。その間、飛行隊の編成や使用する航空機も大きく変わり、その年月の長さを感じさせる。もう少しで在日40年を迎えるが、そのとき彼らは、その記念日を岩国基地で迎える。
我々飛行機ファンを大いに楽しませてくれたCVW-5であるが、厚木基地での活動も残り少なくなった。これを機会に、CVW-5のこれまでを振り返ってみたい。

これまでのあらすじ

資料記事
第21話 テロとの戦い、始まる
第20話 インディペンデンスからキティー・ホークへ
第19話 イラクを睨む
第18話 ミッドウェイからインディペンデンスへ
第17話 湾岸戦争とミッドウェイの退役
第16話 ホーネット時代の到来
第15話 Midway Magicとファントム時代の終焉
第14話 再び平和に
第13話(Rev.B) 日本へ 
第12話(Rev.C) ヴェトナム戦争(後編)
第11話(Rev.C) ヴェトナム戦争(中編-3)
第10話(Rev.C) ヴェトナム戦争(中編-2)
第9話 ヴェトナム戦争(中編-1)
第8話 ヴェトナム戦争(前編)
第7話 東西冷戦、朝鮮戦争後
第6話 朝鮮戦争(後編)
第5話 朝鮮戦争(中編)
第4話 朝鮮戦争(前編)
第3話 朝鮮戦争勃発
第2話 ジェット時代の夜明け
第1話 誕生



第22話 VF-154 “Black Knights”、最後の戦い

 米国での同時多発テロが起こった時、空母キティー・ホークは横須賀でオーバーホールを受けていた。オーバーホールが始まって約3ヶ月が経っていたが、第5空母戦闘群司令官より、整備・修理の加速と戦時展開への準備を急ぐよう指示が出された。そして9月21日、キティー・ホークは海上公試と空母適合性試験のため横須賀を出港、CVW-5とともにフィリピン海へと向かう。海上公試から帰還後、CVW-5の戦闘機部隊は硫黄島に向かい、爆弾の投下訓練を行い、9月30日に帰還した。 



VF-154のF-14A(16127/ NF105)


VFA-192のF/A-18C(164899/ NF300)


VAW-115のE-2C(163698/ NF602)


VS-21のS-3B(160123/ NF705)

9/11米国同意多発テロ勃発後の厚木基地では、9月15日頃から艦載機の飛行が頻繁に繰り返されるようになる。写真は9月16日に撮影したもので、曇り空の厚木のR/W01を離陸するCVW-5の機体で、上段左からVF-154のF-14A(16127/ NF105)、VFA-192のF/A-18C(164899/ NF300)、VAW-115のE-2C(163698/ NF602)、VS-21のS-3B(160123/ NF705)。

写真: 筆者撮影(2001年9月16日)


 米国のブッシュ政権は、9/11テロの実行犯、アルカイダへの報復のため「不朽の自由」作戦(Operation “Enduring Freedom”:以降OEFと略す)を発動した。またHawk/Fiveチームに対しては、9月27日、Operation “River City”と称する作戦命令が下った。この作戦はOEFの間、特殊作戦軍(SOF: Special Operation Force)を空母キティー・ホークに載せ、北アラビア海へ展開、浮かぶ前進基地としてOEFを支援するものであった。SOFを載せるため、展開するCVW-5も、分遣隊レベルの小規模の編成とし、VFA-27、VFA-192、VFA-195から合計8機のF/A-18C、VS-21から3機のS-3B、HS-14から2機のSH-60F、そしてVRC-30 Det.5から2機のC-2A、を派遣するといったものとなった。この時のCVW-5の編成を表22-1に示す。


表22-1 2001年10月1日~12月23日のアラビア海展開時のCVW-5編成


  海上公試から戻った翌日の、2001年10月1日、準備を整えた空母キティー・ホークはミサイル駆逐艦USS Curtis Wilbur(DDG-54)、ミサイル・フリゲート艦”USS Gary”(FFG-51)を従え横須賀基地を出港、その後特殊編成のCVW-5機を回収し、北アラビア海へと向かう。10月7日にはマラッカ海峡を通過し、インド洋に入る。10月12日から14日の間、オマーンのマシーラ島に寄港し、統合特殊作戦軍団のTF Sword(後にTF11(Task Force 11):第11任務軍となる)の兵士約600名とUH-60Lブラックホーク、MH-47Eチヌークのヘリコプター計20機を収容する。そしてキティー・ホークはTG-50.3を構成するため、北アラビア海へと向かった。

10月19日と20日に作戦が実施され、キティー・ホークからTF Swordの兵士たちが、ヘリコプターでアフガニスタンのカンダハール近傍に所在するタリバン要人のミュラ・ムハンマド・オマール(Mullah Mohammed Omar)の在処とカンダハールから80マイルほど南のビビ・テラ(Bibi Tera)近くの飛行場を襲撃した。

10月23日には合衆国中央軍の司令官、トミー・フランクス陸軍大将(GEN Tommy Franks)が、空母キティー・ホークを表敬訪問し、SOFの前進基地としての任務に就いている将兵を激励した。北アラビア海でのこの任務は12月5日まで続く。Operation River Cityのミッションを終えたキティー・ホークは、オマーンのマシーラ島に向かい、12月6日にマシーラ島に到着すると、SOFの将兵とヘリコプターを降ろし、補給艦T-AO 202”USNS Rappahannock”より給油と物資の補給を受け、翌日帰国の途に就く。Hawk/Fiveチームはインド洋を抜け、12月13日にタイのプーケットに入港し、小休止した後、12月17日にマラッカ海峡を、20日に台湾海峡を通過し、一路横須賀へと向かった。22日には、SH-60Fを除くCVW-5の航空機が空母キティー・ホークを飛び立ち、厚木へ向かう一方、キティー・ホークは翌12月23日、83日間のOEF任務を終え、横須賀に入港した。横須賀への帰路、空母キティー・ホークの飛行甲板上には”FREEDOM”の人文字が描かれた。

今回のOEFへの参加に当たり、当初CVW-5の飛行隊には空母キティー・ホークの防衛を主任務とする計画がなされていたが、SOF支援のための攻撃ミッションにも加わることになり、結果、今回の展開における飛行ミッションは600回を越え、アルカイダやタリバンへの攻撃ソーティーも100回を越えることになった。この他、VRC-30Det.5の2機のC-2Aは、バーレーンに展開し、この海域に展開した4隻の空母、エンタープライズ(CVN-65)、セオドア・ルーズベルト(CVN-71)、カール・ビンソン、(CVN-72)そしてキティー・ホーク(CV-63)への輸送任務が与えられ、1500名の人員と150トン以上の荷物を輸送している。こうしたCVW-5の功績により、帰還後、CVW-5の副司令官のパトリック・ドリスコール大佐(CAPT Patrick Driscoll)がBronze Star勲章を受章している。またこの間、OEFに参加しなかったCVW-5のメンバーと航空機も、いくつかの分遣隊を構成し、厚木はもとより、グアム、嘉手納等へ展開し、訓練に励んだ。





 OEFの任務を終え、横須賀への帰路、空母キティー・ホークの飛行甲板に”FREEDOM”の人文字が描かれた。また甲板上にはこの任務に参加した13機のCVW-5の機体が見られる。
出典: US Navy Official Photo Archive (2001年12月18日)



 横須賀に戻った空母キティー・ホークは約3カ月間の定期修理と整備に入り、CVW-5も3カ月ほどを陸上で過ごすことになった。2002年の年が明けると、厚木では1月3日から飛行訓練が始まった。






青空の中、訓練から戻ってきたVF-154の編隊。オーバーヘッド・アプローチ後、編隊をブレークする。
写真: 筆者撮影(2002年1月4日)


 この定修では、海面すれすれの超低空を飛翔してくる対艦ミサイルや巡航ミサイルへの対処能力向上のため、RIM-116A Rolling Airframe Missileがキティー・ホークに搭載された。このRIM-116は戦闘機などに搭載される短距離空対空ミサイルのAIM-9サイドワインダー・ミサイルをベースに開発されたもので、赤外線センサーはFIM-92 スティンガー・ミサイルから流用されている。定期修理が終わったキティー・ホークは2002年3月の半ばから約半月をかけ、西太平洋での海上公試とCVW-5の空母適合性試験を実施するとともに、この間、新たに装備した近接防御ミサイルRIM-116Aの発射試験も行った。




2002年3月21日、空母キティーホーク(CV-63)から試射されるRIM-116ローリングフレーム・ミサイル。
出典: US Navy Official Photo Archive(020321-N-9849W-001)

 こうして航海への準備の整ったHawk/Fiveチームは、2002年4月15日に春の西太平洋での訓練クルーズに出発する。今回の訓練クルーズでは香港、シンガポール、グアムに立ち寄り、6月5日に帰還した。これまでは春のクルーズ終了後厚木基地の公開が行われたが、2001年の9/11米国同時多発テロ以降、基地公開は無期延期となっていた。CVW-5の飛行隊は、厚木をベースに日本国内での訓練、そして夏場には戦闘機部隊は順次グアム島のアンダーセン米空軍基地に展開し、実弾による射爆撃訓練を行った。また日本国内各地の自衛隊基地公開などにも姿を見せている。

そして秋になり、10月25日、空母キティー・ホークは随伴艦を伴い、西太平洋へのクルーズに横須賀を出港した。一方CVW-5の艦載機は、いつものように空母を追うように厚木を飛び立ち、太平洋上を硫黄島方面へと向かうキティー・ホークに収容されていった。硫黄島近海では2日間、米海軍の他の部隊との演習に加わり、その後再び日本近海へと戻る。そして11月11日から22日までの間、恒例となる海上自衛隊との日米合同演習”ANUALEX 14G”に参加した。今回も日米共同での指揮統制能力向上のための訓練が、航空、水上、水中の各部隊連携の下に行われ、特に日米ともに各3隻のイージス艦を参加させるという、力の入った訓練となった。また米側からは、第7艦隊所属艦のみならず、ワシントン州エバレットを母港とする駆逐艦、”USS Paul S. Foster”(DD964)やハワイの真珠湾を母港とする攻撃型原子力潜水艦2隻、”USS Chicago”(SSN721),”USS Louisville”(SSN724)なども参加した。この演習後、Hawk/Fiveチームは横須賀/厚木への帰途に就き、12月12日にはCVW-5の厚木へのフライインが始まり、キティー・ホークも随伴艦と共に12月13日に横須賀に入港した。年末も近づき、部隊はクリスマス休暇に、キティー・ホークは1月からの出向に備え整備作業に入る。




海上自衛隊との合同演習”ANUALEX 14G”期間中の2002年11月14日、ミッションのため空母キティー・ホークをアフターバーナーの炎をひいて離艦するVF-154のF-14A
出典: US Navy Official Photo Archive (021114-N-1810F-018)


 年が明けて早々の2003年1月23日、空母キティー・ホークはCVW-5とともに日本を離れる。展開先はペルシャ湾であったが、北朝鮮の核兵器開発に絡む朝鮮半島での緊張の高まりに対応するため、ひとまず寒風の吹き荒れる朝鮮半島沖へと向かう。朝鮮半島沖には3週間弱とどまり、Hawk/Fiveチームは2月12日に”Operation Southern Watch”と”Operation Iraqi Freedom”での任務に向け、日本海を離れ、ペルシャ湾を目指す。この航海がVF-154にとってCVW-5のメンバーとしての最後の航海となることを、我々は知る由もなかった。このときのCVW-5の編成を図22-2に示す。


表22-2 2003年1月23日~5月6日の西太平洋/ペルシャ湾展開時のCVW-5編成


 ”Operation Iraqi Freedom”イラク自由作戦(OIF)はこの時点では当然公にはなってなかったが、イラクへの侵攻作戦計画は米国内で着々と進められていた。2002年7月9日の統合参謀本部議長(CJCS)命でイラクへの軍事作戦の実行可能性の検討が始まり、8月には米中央軍司令官とイギリス軍統合作戦本部長との会談、またラムズフェルド国防長官のサウジアラビア訪問により本作戦への支援を打診している。そして2002年8月29日、ブッシュ大統領はフセイン政権転覆を承認し、9月11日(米国東部時間)の国連総会での演説につながっていく。国連総会での演説は、国際社会への共通の敵としてのフセイン政権の非難と、それに対し米国とともに国連が対処することを訴えるものであった。また統合参謀本部議長は9月12日には自由イラク軍(FIF)の訓練計画策定命令を、10月7日にはトルコからの航空作戦、及び陸上作戦の計画策定命令を、そして2003年1月16日には戦闘軍司令官、及び三軍と海兵隊に対し、イラク侵攻に当たっての作戦に照らし合わせ、戦略的任務、必要とされる戦闘能力、そして高度な脅威に対する評価命令を下したのである。こうした中、Hawk/Fiveチームは2月22日にペルシャ湾に入り、CVW-5の戦闘機部隊はイラク南部での近接航空支援(CAS)や前線航空統制官の任務に就いた。




2003年2月28日、ペルシャ湾上を航行する空母キティー・ホークから発艦するため、フライトデッキクルーにカタパルトのランチ・シャトル位置まで誘導され、VFA-195のF/A-18C(164980/NF404)
出典: US NAVY Official Photo Archive (030228-N-1810F-011)


 しかし、この時点で戦争への道筋は既に決められていた。このため中央軍(CENTCOM)からの指示のもと、VF-154は4機のF-14Aから成る分遣隊をカタールのアル・ウデイド(Al Udeid)空軍基地へ派遣する。アル・ウデイドでは開戦に備え、米空軍のF-15E、F-16CJ、英空軍のトルネードGR.4、オーストラリア空軍のF/A-18Aとともにレーザー誘導爆弾やJDAMの投下訓練に行った。特にVF-154分遣隊のクルー達は、LANTIRNを使ってのレーザー誘導兵器の直接攻撃とともに、連合軍の攻撃機が放つレーザー誘導爆弾やJDAMなどの目標への誘導訓練に励んだ。

米軍を始めとする多国籍軍が続々とイラク周辺に展開する3月17日、ブッシュ大統領はイラクのフセイン大統領並びに、彼の2人の息子に対し48時間以内にイラク国外への退去を要求した。このとき米海軍は5個の空母戦闘群をOIFのために準備し、USS Abraham Lincoln(CVN-72)/CVW-14、USS Constellation(CV-64)/CVW-2、及びUSS Constellation(CV-63)/CVW-5をペルシャ湾へ、そしてHarry S. Truman(CVN-75)/CVW-3、及びUSS Theodore Roosevelt(CVN-71)/CVW-8を地中海へ、既に配備を終えていた。フランス、ドイツ、ロシアそして中国からは反対の声が上がったが、米国内の世論の支持を受け、かつフセイン大統領がブッシュ大統領の最後通牒を退けたことから、2日後の3月19日、多国籍軍の攻撃が始まった。最初、米海軍艦艇からバグダッドに向け巡航ミサイルが発射され、次いでF-117Aステルス戦闘機による攻撃が行われた。その後多国籍軍の攻撃機によるレーダーサイトと対空ミサイルサイトへの攻撃が始まる。初戦の夜間攻撃には、CVW-5からVF-154所属の2機のF-14AとVFA-192、及びVFA-195の8機のF/A-18Cとが参加している。中でもLANTIRNを搭載したVF-154のボムキャットは、イラク西部に展開する情報部隊施設と移動式SAMサイトを攻撃した。この日のCVW-5作戦機の攻撃ミッションソーティー数は総計42回に及び、イラクの軍事目標に対し37個の爆弾を投下している。

翌3月20日には地上戦が開始される。米第1海兵遠征軍と英陸軍部隊とがイラク南部の油田地帯を占拠するため国境を超える。米陸軍第3歩兵師団も南部イラクへ侵攻、そして特殊戦軍がイラク南部と西部で活動を開始した。米軍を中心とする多国籍軍のイラク進攻は素早く、3月21日には米陸軍の第3歩兵師団が160kmもイラク領内へ侵攻し、特殊戦部隊がペルシャ湾北部にあるイラクの石油・ガス集積地、及びタリル(Talil)とジャリバ(Jalibah)の飛行場を占拠した。CVW-5のF-14AとF/A-18Cの3月20日のソーティ数は26回に及び、さらにVAQ-136のEA-6Bは空軍のB-52のミッション・エスコートや特殊作戦軍への電子戦支援を行った。

3月22日になると第3歩兵師団は240kmイラク領内へ侵攻、第1海兵遠征軍や英陸軍部隊もイラクの主要港であるバスラ(Basrah)に近づいた。イラク軍の抵抗は散発的であったが、バグダッドから370km南に下り、丁度幹線道路がユーフラテス川と交差するナシリア(Nasiriyah)で、イラク軍の最初の大きな反撃が起こり、米軍にも多数の死傷者が発生する。またこの日には無人機のRQ-1を改造した武装プリデターが出動し、イラク軍の自走対空戦車ZSU 23-4にヘルファイアー・ミサイルを撃ち込み、無人機として初のスコアを記録した。




 2003年3月23日、空母キティー・ホーク上で胴体下のパイロンに複数の500lbレーザー誘導爆弾を搭載し、発艦のための最終チェックを受けるVF-154のF-14A(161272/NF105)

出典: US Navy Official Photo Archive (030323-N-1810F-011)                          


 3月24日には地上部隊の先頭を進む第3歩兵師団がバグダッドから南西に100kmの地点にあるカルバラの戦いで有名なKarbalaに到達した。またこの日から翌日にかけ、強烈な砂嵐がイラクの中央部と南部に吹き荒れた。そのため、戦場は砂塵で覆われ、空からの攻撃を阻んだ。それでもCVW-5の15機の戦闘機は、イラクの戦車や高射砲、またバグダッドに迫る味方部隊に反撃するイラク共和国防衛隊の指揮・統制施設めがけ、1,000lb、及び2,000lbの精密誘導爆弾を放った。その翌日にもCVW-5の21機のF/A-18C が、30ソーティの近接航空支援を含む総計76回の戦闘ソーティをこなし、その間、30発の1,000lbGPS誘導爆弾と4発のAGM-154C JSOWを投下した。

3月26日の午後になると砂嵐がひどくなり、ペルシャ湾に向かって流れてくる砂塵のため、空母キティー・ホークからの艦載機の運用が一時中断される事態にもなった。午前中に出撃したホーネットもイラクのレーダーサイト攻撃後、空母に戻れず、クウェートの空軍基地にダイバーとしている。またクルド族が実権を握るイラク北部のバシャー(Bashur)に、米陸軍の第173空挺旅団が降下、飛行場を占拠した。こうして兵站拠点が確保できたため、翌日には空軍輸送機による第1歩兵師団の戦車の空輸が始まった。

バグダッドに近づくに連れ、イラク軍の反撃も激しさを増した。地上軍を支援する空からの攻撃は不可欠で、CVW-5の飛行隊は3月28、29日とカルバラ(Karbala)とバグダッドの間に設置された、ミサイル・キャニスター、及びその他軍事施設やバース党本部建物などを、バンカー・バスターやJSAWなどの新型兵器で攻撃した。3月30日には第3歩兵師団がカルバラのすぐ南、バグダッドから南に100kmにあるヒラー(Hillah)まで北上する。                          




2003年3月26日、砂嵐がひどくなり、ペルシャ湾上にも流れ込み視界が遮られたため、空母キティー・ホークでの飛行運用も一時中断された。飛行甲板上に機体が密集している。
出典: US Navy Official Photo Archive (030326-N-1810F-015)
                                


 4月に入り、1日と2日、CVW-5のF-14AとF/A-18Cは、地上軍支援のため、イラク南方のバスラとバグダッド近郊に総計100,000lbを越える爆弾を投下した。この4月1日の出撃の際VF-154のF14A(158620/NF104)が爆撃後、空中給油機とのランデブー地点手前でメカニカル・トラブルに見舞われ、エンジン1基が停止する。さらに追い打ちをかけるように燃料移送系にも故障が発生し、正常だったエンジンも停止を余儀なくされ、クルー達は砂漠の上空でベイル・アウトに踏み切った。幸いにも無事脱出し、空軍の戦闘救難ヘリコプターに救助され、パイロットとRIOはクウェートのアハメド・アル・ジャベル航空基地(Ahmed Al Jaber AB)に帰還することができた。一方、4月2日のバグダッド近郊への支援ミッションでは、VFA-195のF/A-18Cが陸軍のパトリオットPAC-2ミサイルの誤射により撃墜されるという悲劇が起こり、パイロットは帰らぬ人となった。

地上では4月2日に米陸軍第3歩兵師団がバグダッドの真南、約70~80kmにあるムサイーブ(Musayyib)でユーフラテス川を渡り、バグダッドに迫っていた。一方、第1海兵師団はバグダッドから南西に140kmにあるヌマニーヤ(Numaniyah)でチグリス川を渡った後、イラクのバグダッド師団と戦闘に入る。

4月3日、4日の両日、CVW-5の戦闘飛行隊はバグダッド国際空港を防備する対空ミサイルサイトや近郊の軍事施設を攻撃した。また4日の夜間攻撃ではF/A-18C飛行隊を支援するVAQ-136のEA-6Bが、OIFでは最初のAGM-88 HARMをイラク軍の対空ミサイルサイトに向け発射し、これを破壊した。一方、バグダッド国際空港に向かい進撃していた第3歩兵師団は、4月4日にイラク軍との戦車戦に勝利し、バグダッド国際空港を手中に収めた。これでまた大きな輸送拠点が確保できたことになり、4月6日には米軍機がバグダッド国際空港に着陸を始める。またこの頃、イラクのバグダッド師団と戦っていた第1海兵師団もこれを打ち破り進撃をつづけていた。




2003年3月28日、ミッションを終え帰還してきたVS-21のS-3B
出典: US Navy Official Photo Archive
(030328-N-1810F-016)                                     



2003年3月28日、エスコートミッションを終え、キティー・ホークに着艦するVAQ-136のEA-6B
出典: US Navy Official Photo Archive
(030328-N-1810F-017)                                 



2003年3月30日、GBU-12 レーザー誘導爆弾を搭載して夜間爆撃に発艦するVF-154のF-14A
出典: US Navy Official Photo Archive
(030330-N-1810F-014)                                



2003年4月3日、早期警戒任務に就くため、空母キティー・ホークを発艦するVAW-115のE-2C
出典: US Navy Official Photo Archive
(030403-N-1810F-005)                                 

 4月13日にはフセイン大統領の故郷であるティクリット(Tikrit)など、残された街も海兵隊のトリポリ任務部隊が制圧し、イラク側の抵抗もほぼ収拾する。翌日にはバグダッド市内もほぼ鎮圧され、パトリオット・ミサイルによるバグダッドのエアーカバーが完了した。これによりクウェートに展開していた米陸軍第4歩兵師団がバグダッドの北西部近郊に移動し、防備を固めるとともに、第1海兵師団とイラクの主導者たちとの間で、破壊されたインフラの復旧計画などについて話し合いが始まった。そして4月15日、国防総省はフセイン大統領の行方が分からないものの、大きな戦闘は終了したと宣言する。

2003年4月23日、戦いも一段落し、OFIとOSWの両作戦に参加したHawk/Fiveチームにもペルシャ湾を離れる時がやってきた。CVW-5の飛行隊はこの間、5,375回のフライト・ソーティーをこなし、総飛行時間は11,800時間に、そして軍事目標への投下兵装総量は900,000lbに達した。

キティー・ホーク戦闘群は一路横須賀をめざしインド洋、南シナ海、太平洋と進み、5月1日の早朝、HS-14のSH-60F/HH-60Hを残し、空母キティー・ホークからCVW-5の艦載機が次々と飛び立ち、ホームベースの厚木へと向かった。この日の厚木基地上空は朝から青空が広がる快晴で、その青空の中、第1陣となるVFA-195のF/A-18Cホーネットの4機編隊が11時45分頃、上空に姿を現した。4機のホーネットは基地上空で編隊をブレーク、CO機を先頭に次々と滑走路へと着陸していった。続いて、今回のクルーズがCVW-5メンバーとして最後となるVF-154のF-14Aが、そしてVFA-27とVFA-192のF.A-18C、VAQ-136のEA-6B、VAW-115のE-2Cと続き、最後にVS-21のS-3Bが独特のエンジン音を響かせながらタッチダウンした。機体から降り立ったクルー達はエプロンに迎え出た家族との再会を喜び、帰還できたことに感謝した。またフライイン後、エプロン並んだ機体の多くにはスコアマークが数多く描かれ、戦闘の激しさを物語っていた。




2003年5月1日、厚木基地へ到着後、無事を喜び合い、笑顔で家族の待つところへ向かう、VFA-192のパイロット達
出典: US Navy Official Photo Archive (030501-N-3503M-004)

 一方、米国西海岸では、この日、ペルシャ湾から帰還しサンディエゴに向かって航行中の原子力空母CVN-72 “USS Abraham Lincoln”にジョージ W. ブッシュ大統領が降り立った。飛行服からスーツに着替えたブッシュ大統領は、飛行甲板上で多くの将兵や報道陣を前にして、イラクでの戦闘終了宣言を行った。大量の最新兵器を駆使した戦闘はフセイン政権を倒し、イラクの民主化に向けて第一歩が踏み出せるように見えたが、その後の展開が示すように、現実にはブッシュ大統領の描いた筋書き通りには進むことはなかった。

さてCVW-5を送り出した空母キティー・ホークの方は、航行を続け、こちらも大勢の家族・友人・関係者の見守る中、5月6日早朝に随伴艦と共に母港横須賀に入港した。また空母の入港を見守ったHS-14のSH-60F/HH60Hも午前中には厚木へとフライインしている。帰港後のキティー・ホークは、3カ月間の戦闘の垢を落とし、故障個所を修理するためのオーバーホールのため、5月19日にドック入りとなった。そしてCVW-5は再び、陸上での訓練生活に戻ったのである。
                                 (この章終わり)      



2003年5月6日、ペルシャ湾での任務を終え、久しぶりに横須賀基地に戻ってきた空母キティー・ホーク
出典: US Navy Official Photo Archive (030506-N-6811L-023)



      私のアルバムから
(本章に関連する当時のCVW-5の機体を紹介)




2002年1月4日、厚木のR/W19に着陸するVF-154のCO機(161277/NF101)




2002年1月4日、厚木のR/W19に着陸するVF-154のF-14A(161280/NF102)。
左舷パイロンにフェニックスの訓練弾、ATM-54Cを搭載している。




訓練を終え、厚木に戻ってきたVFA-192のCAG機 (164899/NF300)




2002年1月4日、厚木のR/W19に進入するVAW-115のE-2C(163698/NF602)




2002年1月4日、訓練を終え厚木に戻ってきたVAQ-136のEA-6B(163529/NF503)




2002年1月4日、厚木のR/W19にアプローチするVFA-27のF/A-18C(163996/NF205)




2002年1月4日、厚木のR/W19に進入するVF-154のF-14A(161288/NF110)。
右舷パイロンにLANTIRNポッドが見える。




002年1月4日、厚木のR/W19に着陸するVFA-195のF*A-18C(164964/NF407)




2002年8月25日、横田基地のフレンドシップ・デーでの展示を終え、
厚木に帰投するため滑走路へタキシングするVF-154のF-14A(161216/NF102)




横田のR/W36を、アフターバーナーをたいて離陸滑走するVF-154のF-14A(161216/NF102)


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Vol.59 2013 September   www.webmodelers.com /Office webmodelers all right reserved /editor Hiromichi Taguchi 田口博通

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