1928年、飛行船イタリア号は北極点からの帰路に墜落、ノビレ将軍の指揮する探検隊の生存者は、赤く染めたテントを氷原に張って救出を待ちます。
ヨーロッパ中で競うように捜索・救出活動が始まりますが、捜索隊の遭難も相次ぎ、南極点一番乗りを果たしたアムンセンもラタム47飛行艇で行方不明になります。遭難から約1ヵ月後に、最初の救出機が「赤いテント」に着陸し、
将軍と探検隊のマスコット犬の救出に成功しますが、以後の救出活動が停滞したこともあって、ノビレ将軍は隊員を置き去りにしたとして、非難されて名誉を失墜する後日談があります。
将軍の救出機はスウェーデン空軍のフォッカーC.VEで、空軍ではS6Bと呼称されていました。単発複葉の複座偵察機ですが、救出時は操縦士のエリナー・
ルンドボルイ中尉だけが搭乗し、機体にスキーを装着していました。 |
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1926年創設のスウェーデン空軍は、オランダのフォッカーC.VのD型とE型を購入し、D型をJ3戦闘機、E型はS6偵察機として採用します。そしてライセンス生産権を取得し、マルメンの空軍作業所でJ3とS6を生産しますが、やがてJ3は戦闘機に不向きと評価され、S6Aとして偵察機に配置転換されます。
S6のうち10機は、エンジンをオリジナルのブリストル・ジュピターⅥ(450hp)から、NOHAB社生産のエンジン(600hp)に代えて生産されたので、S6Bと呼ばれました。スウェーデン空軍のフォッカーC.Vは、第二次世界大戦中も偵察や着弾観測、連絡用途に使われ、サーブ17の戦列化と共に退役しました。
なおスウェーデン空軍博物館の展示機は救出機そのものではなく、又塗装も救出時を再現しているものではないと思います。(リサーチ不足で済みません)
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