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誌上個展

<日本航空史>航空発祥のころ

  by 加藤 寛之
プラモデル コラム

 埼玉県所沢市にある航空発祥記念館は、私が所属しているプラモクラブ「S.L.B.」が展示会を開く場所だけれども、そもそもこの館がある所沢航空記念公園は、日本初の飛行場があった場所だ。
 奈良原三次「随想 航空むかし話」(『航空朝日』昭和十七年十一月号)には、「三十余年前の昔話」だとして次のように書いてある。

 「わが国でも明治四十二年六月、臨時陸軍気球研究会が組織され、大学、陸海軍から委員が選ばれ、その研究に着手することとなって、私も海軍側からその一人として参加した。
しかしその名称が示す如く気球が主で、飛行機は従の姿で陸軍の気球隊がその中心であった。さてまず第一に必要な飛行場の建設に取りかかることとなり、諸所を物色したが結局所沢と決定したのだ。中央が低い場所で、これに向かって滑走すれば早く飛行機が離陸し、着陸も斜面を上るようにすれば早く停止するだろうというのだから面白いではないか。」

著者の奈良原氏は、日本の航空黎明期に活躍した飛行家だ。



 そして、飛行場が出来た。
仁村 俊『航空五十年史』(昭和十八年十月二十日発行)に、飛行場についてこう書いてある。

「ところである人は所沢の飛行場が余りに砂地で車輪の滑らないのを見て、降下の際危険である、飛行場として不適当だといっているが、ある人はこれをうち消して一年もたてば芝生になってしまうからそんな心配はあるまいといっていた。(略)漸くにして四月がきた。正式の飛行試験が無風あるいは風速六米以下の日に限って行われることとなった。(略)飛行場の一角にある研究会事務所の楼上に赤白旗が上がると大勢の見物客が、どっと飛行場へつめかけた。それは飛行準備中という印である。其の他白旗は飛行なし、赤旗は飛行開始の印であったのである。」
徳川好敏『日本航空事始』(昭和39年)には、

「当時は、風速五メートル以上になると飛行は中止したので、いきおい演習は、風のなく気流の関係も良好な早朝と限られていた」

とある。風速「6米」と「五メートル」で相違があるが、これは大した問題ではない。風が強いと飛ばないということだ。

長々と引用したが、あらためて掲載した絵葉書を見たい。

 彩色版をみると飛行場は草原だ。奥に見える建物が気象観測所で、ここで風速を観測して旗を揚げて飛行の可否を知らせたということだろう。その建物は彩色絵葉書でクリーム色というか黄色っぽく刷られている。人工的な彩色とはいえ色が記録されていることは重要である。




 モノクロ版に正面から写っている飛行機は、絵葉書の写真説明によれば、会式(徳川式)第2号機。後方には、気象観測所が写っている。徳川好敏『日本航空事始』(昭和39年)には会式各型の説明があり、航空発祥のころの様子も分る。 今回使った出版物はいずれも古い本ではあるが、探せば入手できる程度には残存している。


(蛇足)
会式のような飛行機は駐機しているときに両翼のエルロンが下がる。F4Fワイルドキャットは主翼を後ろにたたんだときに両エルロンが上方向になる。これはエアフィックスの新しいキットを作った方は知っていると思う(私はキットの完成品を見て気づいたので偉そうなことは言えない)。
彩雲はフラップを補助するように両エルロンが下がる機能があるというが、この機能はジェット機になると珍しくない。エルロンがエルロンとして機能するときは左右逆に動くといえるのだろうが、プラモデル的な説明でエルロンというパーツになると、必ず逆だとは言い切れない。



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