そして、飛行場が出来た。
仁村 俊『航空五十年史』(昭和十八年十月二十日発行)に、飛行場についてこう書いてある。
「ところである人は所沢の飛行場が余りに砂地で車輪の滑らないのを見て、降下の際危険である、飛行場として不適当だといっているが、ある人はこれをうち消して一年もたてば芝生になってしまうからそんな心配はあるまいといっていた。(略)漸くにして四月がきた。正式の飛行試験が無風あるいは風速六米以下の日に限って行われることとなった。(略)飛行場の一角にある研究会事務所の楼上に赤白旗が上がると大勢の見物客が、どっと飛行場へつめかけた。それは飛行準備中という印である。其の他白旗は飛行なし、赤旗は飛行開始の印であったのである。」 |
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徳川好敏『日本航空事始』(昭和39年)には、
「当時は、風速五メートル以上になると飛行は中止したので、いきおい演習は、風のなく気流の関係も良好な早朝と限られていた」
とある。風速「6米」と「五メートル」で相違があるが、これは大した問題ではない。風が強いと飛ばないということだ。
長々と引用したが、あらためて掲載した絵葉書を見たい。
彩色版をみると飛行場は草原だ。奥に見える建物が気象観測所で、ここで風速を観測して旗を揚げて飛行の可否を知らせたということだろう。その建物は彩色絵葉書でクリーム色というか黄色っぽく刷られている。人工的な彩色とはいえ色が記録されていることは重要である。 |