英国のジェット戦闘機の開発を遡ると、ナチスドイツとほぼ同じ時期にジェットエンジンの開発に成功したのですが、ドイツ機のような革新的な機体を手にするには至りませんでした。この流れは戦後にも引きずられ、ミーティア、ヴァンパイア、アタッカーといった機体が生み出されたものの、プロペラ機の性能を若干上回る程度のものでした。そのため、1946年には航空機生産省から後退翼戦闘機に対する要求仕様書が出され、ホーカー・ハンターやスーパーマリーン・スイフトへと繋がっていきます。さらに1947年5月、EE社はマッハ1.5の研究機の研究契約を獲得し、1948年の末にはライトニングの形態に近い研究機の形態が明らかになります。軍需省はこの設計結果を見て、翌年には試作機2機をEE社に発注しました。これがP.1Aです。 |
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P.1Aの初号機は1954年8月4日にボスカム・ダウンで初飛行に成功しますが、この年の頃には米国でもF-100が、ソ連ではMiG-19が出現し、世の中は超音速機実用化時代への移行が始まっていました。P.1は初飛行の7日後の8月11日には早くもマッハ1.02を達成し、その能力の片鱗を見せつけました。しかしP.1はアフターバーナーの無い、サファイア・エンジンを搭載していたため、その後のマッハ2を超える速度要求の達成には、更にパワフルなアフターバーナー付のエンジンの採用が不可欠となりました。そのため英空軍は、2機のP.1を高速戦闘機実現に向けた研究機へ改修し、P.1Aとし、さらに高速実用機の試作機としてP.1B 3機を発注することを決めたのです。このP.1Bがその後のライトニングの原型となります。 |