ジャガーはアメリカ市場で成功し、イギリスの外貨獲得に大きく貢献した。創業者のウィリアム・ライオンズは1956年、イギリス王室より「ナイト」の称号を授かっている。
この頃からジャガーEタイプがアメリカで大ヒットした1965年までがジャガーの全盛期だったが、1966年にウィリアム・ライオンズはさらにビジネスを拡大しようとして、大きな経営判断上のミスをする。
それは、1966年にイギリス最大の自動車会社ブリティッシュ・モーター・カンパニー(BMC)と合併し、ブリティッシュ・モーター・ホールディング(BMH)となったことである。
マネーゲームの典型のようで よさそうに見えたこの合併だったが、 ところが、大企業病が蔓延していたブリティッシュ・モーター側の主要モデルの販売不振から、1968年にBMH自体が経営不振に陥ることになるのだ。
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それに対してイギリス労働党政権はBMHをレイランド・モータースと合併させて国有化し、1968年にブリティッシュ・レイランド・モーター・コーポレーション(BLMC)を発足させた。
そしてジャガーはそのBLMC傘下となり、長い「冬の時代」に入る。
本来は高級車メーカーであるはずのジャガーは、作業員のレベルがBLMCの平均に下げられることになり、またこの時代のイギリスで多発した労働運動の激化により著しい品質低下に陥った。
そして、最大マーケットのアメリカで「よく壊れる車」とのレッテルを貼られる事態になって行った。
スタイルの旧式化も否めず、1970年代に入ると、更にオイルショックの荒波を被り、燃費の悪いスポーツカーには全くの逆風だった。販売台数の減少により、ついにジャガーEタイプのクーペは1973年末、ロードスターは1975年2月に製造中止となったのである。 |