1950年代後半から1960年代前半の日本で最も技術水準の高い自動車メーカーといえば、それはトヨタでもニッサンでもなく、プリンス自動車だった。
第2次大戦後の日本では多くの軍用飛行機会社が解体され 民営化の道を歩んだ。
プリンス自動車は 陸軍機の立川飛行機の技術者が中心となった「たま自動車(株)」が、1952年11月に「プリンス自動車工業(株)」と改名されたものである。そこに2年後、富士精密工業(中島飛行機の栄や誉エンジンを開発製作した旧中島東京製作所)が合併し 車体からエンジンまでカバーする総合乗用車メーカーとなった。 この”プリンス”という名前の由来は同1952年に皇太子明仁親王(現天皇陛下)の立太子礼が行われたことによる。
1960年代前半のプリンス自動車の規模は、小型乗用車の生産台数では トヨタ、日産に次ぐ第3位のメーカーとなっていた。主力車種はグロリアと今もシリーズ名の残るスカイラインだったが、戦中からトヨタ、ニッサンがトラックメーカーであったのに対し、プリンスは正に戦闘機メーカーの血筋であり、高い技術を誇っていたのだ。 |
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1964年の第2回日本グランプリでは 技術担当常務の中川良一(中島 誉エンジンの主任設計者)が指揮し、車両開発課を桜井眞一郎、走行実験3課を青地康雄がレース活動を担当し、必勝を目指して開発を始めた。
ツーリングカークラスの2レースでは
スカイラインがクラス1~8位独占、
グロリアもクラス1,2,4位を占める戦績を挙げることができた。
しかし、GTレースでは生沢徹のスカイラインGT(4ドアセダンに2リットルV6エンジンを積んだ)が式場宗吉のポルシェ904を一時はリードし会場を大いに湧かしたのだが、結局マシーン性能が格上のポルシェ904に勝利をさらわれ、2位~6位を占める結果に終わった。
このことが、プリンスの技術陣が 本場の最新純レーシングカーポルシェ904に対抗し、それを凌駕するマシーンR380の開発を開始する契機となったのである。 |