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誌上個展

<日本航空史> 帝都を守る飛行場

  by 加藤 寛之
プラモデル コラム

 昨年8月号の日本航空史は、「剣」と「桜花」だった。今年も大東亜戦争の話にしたい。

 私の家からは、遠くに航空自衛隊入間基地に降りる飛行機を見ることができる。旧陸軍航空士官学校がここにあり、その時から飛行場だった。戦時中はほかにも、埼玉県の東武東上線「わかば」駅前の東側は坂戸飛行場があり、日高市の武蔵高萩駅の北方には高萩飛行場、圏央道「入間」インターチェンジのあたりは狭山飛行場があった。飛行場とはいっても粗末なものだから、空き地とか草原と思えばよさそうだ。「旧陸軍における操縦教育」『練習機の世界』(航空情報別冊、昭和56年)には、「特殊飛行は狭山飛行場で受けた」「86時間16分をもって高萩飛行場で95式1型を終り、昭和18年3月22日坂戸飛行場に移り、ここで99式高練による訓練を開始した」という記述がある。訓練だけではない。 渡辺洋二『空の技術』(光人社NF文庫、2010年)の表紙写真の疾風は、坂戸飛行場で撮られた写真だ。埼玉県飯能市の市街地西部の天覧山という低い山のふもとに飯能市民会館がある。今はその駐車場になっている場所に、終戦直後、埼玉県日高市の高萩飛行場から飛行機がガラクタとなって持ち込まれた。それを撮った写真に疾風の尾翼が写っている。さらにしばらく前に、そこでガラクタを見たという方に会うこともできた。「菊水マークの四式戦があった。銀色だったかな?」ということだ。当時、飛行練習生だった方だから、機種に間違いはない。高萩飛行場近くのお寺にある記念の石碑にも、疾風が運用されていたとある。他にもあるが、もういいだろう。



 掲載の葉書は、そんなことを知っている私が、つい先日にネットオークションで落札したもの。坂戸飛行場にいる人が、狭山飛行場にいる人に出したもので、両飛行場の名が1枚にある。宛先に「松山中学校学徒隊」とあるから、現在の埼玉県立松山高校から生徒が動員されていたのだろう。既に亡くなった年齢差がある知り合いは現在の埼玉県立川越高校に通っていたのだが、その方は高萩飛行場へ動員されていた。 差出日は昭和19年10月11日。朱色の印は検閲済みを記した担当者の個人印だと思うが、2つの飛行場の名前とか隊名とか、この程度では機密でなかったのだろう。

 今、そんなことに関心をもつ人は少ないのだろう、落札価格はいくらでもなかった。



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