コンベアF-102Aデルタダガーの開発は、決まって失敗事例として採り上げられます。最初のYF-102は基本設計に問題があり音の壁を突破出来ず、そのため量産準備型製作を同時進行する「クック・クレイギー・プラン」方式が、最悪事例となります。その後エリアルールを採用した改設計のYF-102Aが音速を突破しましたが、この遠回りは高く付きました。またパワー不足のため、本来の目的であるソ連の核搭載爆撃機迎撃には不向きでした。
米空軍採用後、ベトナム戦争で北ベトナム空軍のIL-28対策に出陣しますが、撃墜0で14機を失います。喪失機の1機はMiG-21のK-13ミサイルによるものです。そして最後は無人標的機として消滅したセンチュリーシリーズ中、最も不運な機体という印象があります。
しかしトルコ空軍に供与されたF-102は、意外な活躍をしています。F-102が海外供与されたのはトルコとギリシアの2カ国だけで、対ソ包囲網の一環だった訳ですが。両国は仇敵同士でもあり、キプロス紛争(1974年)で両国の交戦した時には、互いにアメリカ製の兵器を繰り出しました。 |
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F-102には、トルコ空軍のF-102がギリシア空軍のF-5を撃墜した説と、ギリシアのF-5がトルコのF-102を撃墜した説とがあります。トルコの主張が正しいとすると、F-102が敵機ーアメリカ産の機体ですがーを撃墜した唯一の例になります。
トルコ空軍は1968年に合計50機のF-102AとTF-102Aを供与され、1979年まで運用しました。イスタンブール航空博物館にF-102AとTF-102Aが各1機展示されているはずですが、私の拝観時にTF-102Aはありませんでした。
隣の廃港になったアタチュルク国際空港の敷地内(立ち入り禁止)に、野外展示スペースが拡張されていたので、そちらにTF-102Aは置かれたのかもしれません。TF-102は操縦席を並列複座に改造したので、その異様な風貌を目に出来なかったのは残念です。
※本稿は「大戦後 戦闘機」(K・マンソン著 湯瀬謙三訳 野沢正監修 鶴書房 昭和45年8月10日)とWikipedia、博物館の掲示を参照しました。
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