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 (Photo) ペトリャコフ Pe-2

by  コルディッツ
博物館実機写真

 今年は独ソ戦開戦80周年です。そこで今回は赤色空軍で活躍したヒコーキの中で、撮影写真や展示機の情報が少なすぎて、公開出来ずにいたペトリャコフPe-2を紹介させて頂きます。
 ペトリャコフPe-2は1939年12月12日に初飛行に成功しますが、最初は高高度戦闘機として設計、その後仕様が高高度爆撃機に変更されたので、排気タービン過給器を装備していました。
 しかし高高度性能不良とも過給器の性能不足とも、また仮想敵国に高高度爆撃機のないこと等の理由が推測されていますが、最終的に過給器を外した三座の緩急降下爆撃機として開発されます。翌年に生産開始で、NKVDの獄中で設計したペトリャコフ技師を称え、ペトリャコフPe-2と呼称されます。独ソ戦開始後に大量生産体制が整い、終戦までに総計11.427機(諸説在り)が生産されました。これはソ連の生産した双発機の3/4に当ります。大戦中もエンジンや武装の強化が続けられ、第二次世界大戦を勝ち抜きました。
※本稿は「第二次世界大戦 仏・伊・ソ軍用機の全貌」(酣燈社昭和40年)、「続・ヒコーキの心」(佐貫又男著 光人社 2003年)を参照しました。

ペトリャコフ Pe-2 FT  ポーランド空軍
 軍事博物館(ワルシャワ)にて       2009年4月撮影


 1939年の独ソによるポーランド分割で、ソ連の捕虜となったポーランド将兵の生存者は、独ソ戦勃発後にソ連の政策変更に伴うポーランド軍の再組織に参加します。その一部はロンドン在の亡命ポーランド政府に忠誠を誓い、西側に脱出しますが、残ったポーランド軍は赤軍と共に戦い、Yak-1、Po-2、IL-2、
Pe-2で空軍部隊も組織されました。Pe-2部隊は実戦投入に間に合いませんが、大戦後のポーランド空軍の中核となりました。
 FTは「前線要求」の略語で、Bf109G対策として12.7mm機関銃1挺の後方上部銃塔を装備しています。(が撮影時点ではカバーが被され見えません)また左主翼下にダイブブレーキらしき物が写っていますが、確認を怠りました。


操縦士の後ろに座る通信士は爆撃士を兼務し、爆撃時は操縦士の足元を通って、腹ばいになって爆撃照準を行います。また後方下部銃座の射撃士も兼ねます。機首の固定武装(7.62mm機関銃又は12.7mm機関銃)も写りました。この時は機首先端が付いておらず、下面のガラス部が塗りつぶされていますが、理由は不明です。


生産型のエンジンは クリモフM-105R(1,100hp)、同M-105PF
(1,20hp)、同M-107A(1,670hp)と強化が続きました。展示機
の搭載エンジンについてはリサーチ至らず、済みません。




 Pe-2の愛称は「ペシュカ」(ロシア語でチェスの歩兵の意味)
 ここから佐貫又男教授はPe-2を「歩はと金となってヒトラーの
ベルリンに王手をかけたのである」とまとめています。
 Pe-2は高度5,000mで最大速度540kmと高速で、1941年に英空軍
第155中隊のハリケーンⅡがPe-2の護衛をした時、ハリケーンは
エンジン全開にしてようやくPe-2に追従した逸話があります。



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