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誌上個展

<日本航空史> ショートF5・ 広工廠F1と飛行艇の艇体防水

  by 加藤 寛之
プラモデル コラム



 F5とかF1とか、大多数の方は知らないと思う。実は私もよく知らないのだが、塗装の資料として戦前の彩色絵葉書を収集するなかで、この飛行艇の絵葉書は入手しやすい方だった。つまり、当時は注目された飛行艇だったといえる。輸入したF5機材のノックダウン製造が「日本における飛行艇製作のはじまり」(『日本航空機総集 川西・広廠篇』出版協同社、)なのだそうで、凄い意味がある飛行艇だったのだ。『日本航空史 明治・大正編』(日本航空協会)によると、「大正9年、イギリスからショート会社の技術者をよんで、横須賀工廠の造兵部でショート式飛行艇の製作講習を行い、それが終わると愛知時計電機株式会社へ、その権利を譲って同社で同じ飛行艇を製作させた」とある。この文面はF5との関係がハッキリしないが、ショート社の飛行艇は技術移転に大きな意味があったことはわかる。
 だがF5に対する今日での興味・関心は著しく低い。たまたまこの飛行艇について書いてある橋口義男『翼 随筆航空技術』を入手したので、ここで取り上げることにした。当時ならではの苦労話がとても面白い。そもそも、冒頭の「F5」「F1」だが、これはF5が輸入機、F1はそれを広工廠で国産化してエンジンを換装した機体だから、まあ同じ飛行機だ。輸入は大正10年の機材6機分で、その後の国産は昭和4年まで続けられ、輸入機分を含めて約60機を製造したという。60機か、と思うかもしれないが、全幅は31.6mある。US-1が33.15mだから、相当に大きい。『翼 随筆航空技術』によれば、大型工場を建て、大型足場を作り、特殊な検査用具も必要だったそうだ。ただし全長は15mで、US-1の33.46mの半分以下だ。



 『翼 随筆航空技術』から抜粋したい。文字の一部は読みやすくしてある。
どうやら輸入機材を組み立てた時のようだが、「主翼が出来て塗粧をやる時になると、翼弦が大きいので麻布で出来た翼布を張った後で恒温の塗粧室で塗粧してみると、不均一な片張をしているために翼布の張力で翼面が捩れて来て、何度も張り換へねばならなかった」。私の兄は若いときに、ラジコンのいわゆるエンジン機を飛ばしていた。機体をバルサで組み、絹布を張って自作していたのだが、絹布の張り具合で翼が捩れた。捩れについて聞いてみたら、これは張りをつくるためのドープという塗料が原因なのだそうだ。実機も羽布張り部分にドープを塗るから、問題は同じだったのだ。



  次は艇体の防水。「艇体はマホガニー薄板2枚45度に剥ぎ合せるのだが、防水のために薄板の間には亜麻尼油を沁ました麻布が入れてあった。」「湿気の多い日本では湿気を吸い込む事が多く、暫く海上繋留して置くと吸水量が500キログラムにもなる」というものだった。なんで水を吸う布を使うのか、 と思ってしまうが、後に金属の艇体になっても布は使った。飛行艇は海に浮かんでいるのだし、離着水の強い衝撃があるのから、放っておくと金属の艇体でもリベットが緩み浸水してしまう。そこで鋲列ごとに1mくらいポリビニール系の柔らかい塗料で布を貼り、その上に防食性金属塗料を塗るという方法を中野和雄氏が昭和16年に開発したそうである。氏によれば、「終戦まで私の塗装法は全機に採用されていた」という。これは『航空ファン』1975年5月号の記事にある。だから、二式大艇の胴体にハゲチョロ塗装をする際は注意しないといけない。現存する二式大艇の、再塗装前の写真で検討してみたら良さそうだ。その布だが、『航空ファン』1984年7月号によれば綿製のバイヤスに織ったものらしい。
 掲載はF5の彩色絵葉書。F1かもしれないが、私には判別できない。『日本航空機総集 輸入機篇』によると、輸入機は胴体尾部にショート社の名称を書き込んであるそうだ。


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