Home  >リトルチーフの塗装とマーキング P-47D レイザーバック(タミヤ 1/72)> 特集 アメリカ>2023年3月号

特集 アメリカ

  リトルチーフの塗装とマーキング
P-47D レイザーバック(タミヤ 1/72)

  by  平針みなみ HIRABARI Minami

 フランク W. クリッビー(1920年5月30日~2008年4月26日 クリブは名の方が馴染みがありますが、こちらは名前の短縮形 Frank William “Klib” Klibbe 以下「クリブ」と表記します。)の搭乗したP-47D レイザーバック「リトルチーフ」(P-47D-15-RE コードレター:HV-V、シリアルナンバー:42-76179)は、これまで多くのプラキットの箱絵やデカールで取り上げられていますが、「クリブ」の専用機は2機あって、どちらもリトルチーフと名付けられていました。おなじみのリトルチーフは、「2代目」リトルチーフとでもいうべきもので、しかも5機撃墜してエースとなってからのものです。
今回、「初代」リトルチーフ(P-47D-15-RE HV-S 42-75658)と「2代目」それぞれ2機ずつ時期の違うものをイーグルカルスのデカールの解説文・写真をベースに、ライフライクのデカール(「2代目」のみ)の解説なども参考にしつつ、できる限り実機の写真と突き合せて作ってみました。



イーグルカルスのデカール EC#56 LITTLE CHIEF COL. FRANK KLIBBE, 56 TH F. G.
 



英国へ
1920年5月30日、インディアナ州マリオンで生まれ、同州アンダーソンで育った。
1941年10月26日、陸軍航空隊の士官候補生。
飛行訓練を1943年4月12日に終了、フライト・オフィサーとなる。
引き続き、追加訓練のため第338飛行隊に入隊。
1943年8月に英国に渡る。
1943年9月12日、英国サフォーク州のヘールズワース基地の第8空軍第56戦闘航空群第61戦闘飛行隊の最初の補充パイロットとして配属。

「初代」リトルチーフ(P-47D-15-RE 42-75658 HV-S)

 「クリブ」は、1943年11月26日に最初の撃墜を記録しましたが、このときはまだ専用機を与えられていませんでした。このときの乗機はHV-Yだったとのことです。
 この後、専用機があてがわれ、リトルチーフという名称とネイティブ・アメリカンの横顔がエンジンカウリング左側に描かれました。この機体に11月26日の初戦果、白円の中に黒い鍵十字の撃墜マークがコックピット横に描かれました。
 機体の塗装は今回作った4種とも、上側面がオリーブドラブ、下面がニュートラルグレーで、クレオスのMr.カラーをベースにスケールを考慮して明るく調色しました。コックピット後方の窓の内側は、HV-Vのカラー写真でグレーに塗られているのが分かりましたので、HV-Sもニュートラルグレーに塗りました。
 HV-Sは、カウリング前端から24インチのところまでを白く塗り、垂直尾翼・水平尾翼に白い帯を入れていました。垂直尾翼の方は12インチ幅、水平尾翼は15インチ幅。垂直尾翼の上端も白く塗られていたとのことですが、それがわかる写真は未見です。
コードレターHV-Sはステンシルタイプ。
コックピットの前方に照星があります。コックピット内の照準器の横の環状照準器は、はっきりとは確認できませんが付いていなかったように見えます。
リアビューミラーは角形。
脚柱はシルバー。
主翼下面の国籍マークは、大型50インチのものが両翼にあります。この機のタイプは両翼下にラックが装着されており、国籍マークはそれを跨ぐようになっています。位置は「2代目」リトルチーフのものとは少しずれています。イーグルカルスの塗装図をご参照くだし。
なお、スピード向上のため、クルーチーフが機体にワックスをかけ磨いていたということなので、表面はあまりツヤ消しにしないほうがよさそうです。(映画「トラトラトラ」でも出撃前夜だったか、空母の格納庫で整備兵が機体をせっせと磨いていたシーンがありました。また、雑誌「丸」で航空整備兵の回想記かなにかで、配属されたばかりのときは機体磨きをやっていたというようなことを読んだ記憶があります。)
 マーク類のデカールは、インディアンヘッド(かなりオーバースケールですが)、シリアルナンバー(イーグルカルスのものは横幅が1文字分くらい長いので)、撃墜マーク(イーグルカルスの方が版ズレが酷かった)はイーグルストライクのもの。コードレターと主翼下面の国籍マークはイーグルカルス。主翼上面、胴体側面の国籍マーク、細部コーション等はタミヤのキットのものを使用。
この状態が次の作例写真の左のものです。


 時期、前後は不明ですが、この機体にちょっとした変更が加えられました。
まず、“ANDERSON INDIAN”の文字を機首左側に入れるべく、チョークであたりの斜め線が入りました。(このときは、まだ角形のリアビューミラー)
そして、ANDERSON INDIAN個々のアルファベットの輪郭をチョークで記入し、その内側を赤く塗りつぶしました。その後チョークの線は消されています。ただ、「S」の文字は書き直そうとしたのか、写真をよく見ると「S」が入るべき箇所が汚れています。イーグルカルスデカールが「クリブ」にインタビューしたところ、「S」が入る前にこの機体は失われたようです。ただ、イーグルカルスにしろ、イーグルストライクにしろ、Sの文字も用意されています。なお、チョークの輪郭が消される前のカラー写真が残っていて、ANDER ON INDIANが、あたかも白縁付の赤い文字で描かれているように見えます。
スピンナーは赤に塗られました。
リアビューミラーは丸いRAFタイプに変更、色も赤に塗られました。
マーク類のデカールは、インディアンヘッドとコードレターはイーグルカルス、シリアルナンバー、撃墜マーク(こちらは白い下地に黒字を重ねるタイプ)、主翼下面の国籍マークはイーグルストライクのもの(イーグルカルスに合わせてラック部分をカット)。主翼上面、胴体側面の国籍マーク、細部コーション等はタミヤのキットのものを使用。
この状態が作例写真の右のものです。



 (アンダーソン・インディアンのことですが、「クリブ」の高校の野球チームの名称にちなんでいるという説があります。アンダーソンという地名はネイティブ・アメリカンのレナペ族の酋長ウィリアム・アンダーソンにちなむものだそうです。「クリブ」は高校時代フットボールやバスケットボールで活躍しキャノンボールというニックネームで、軍人になってからもジャケットに「キャノンボール」の縫い取りがしてありました。いまでも地元にはアンダーソン・インディアンズというフットボールチームがあり、インディアンの酋長の横顔がシンボルになっています。)

 なお、イーグルカルスの側面塗装図の解説には、一番上のものが1944年1月30日、二番目が1944年2月のものとしていますが、この機体自体は1944年1月21日に他のパイロットが搭乗中に撃墜され失われていますのでこの日付は間違いです。

「2代目」リトルチーフ(P-47D-15-RE 42-76179 HV-V)

 二機目の専用機(この機は、元はHV-M_(Mにアンダーバー付)だったとのこと)にもネイティブ・アメリカンの横顔とリトルチーフの文字が描かれました。
この機体では、機首と尾翼の白が廃され(1944年2月初旬)、機首とラダーが赤く塗られています。
おなじみのインディアンヘッドですが、HV-Sのときより大きいものになりました。
5機撃墜時までは、カウリングと垂直尾翼の白いラインは入っていません。
 1944年3月15日にこの機体で5機目の撃墜を果たしてエースの仲間入りをしました。イーグルカルスのデカールでは撃墜マークのデカールは鉄十字5個のものになっています。
この機体の写真で確認出来た撃墜マークは、2個および3個のときのもの。2個のときの写真は、左側面がほぼ入った写真で、撃墜マークの形状ははっきりとはわかりませんが、二つ白っぽいもの並んでいるといったもの。撃墜マークが3個写っている写真は、「クリブ」がコックピットの縁に片足をかけ、上空を眺めているポーズ。この写真で、撃墜マークが鍵十字ではなく鉄十字であることがわかり、また鉄十字の白い部分が汚れていて、ところどころしか白く見えていません。
リアビューミラーはオリーブドラブ。
スピンナーはシルバー。
脚柱もシルバー。
コードレターはステンシルタイプ。注意すべきは「HV」が少し前に傾いていること。また、コードレターのステンシルの切り方というか、「HV」の「V」と後方水平尾翼前の「V」で、左の斜め線が長いか、右の方が長いかという問題があります。胴体左側でいうと、イーグルカルスはどちらの「V」も同じもので左の斜め線が長くいものとなっていますが、写真を確認すると、前の「V」は左が長く、後の「V」は右が長くなっていました。タミヤキットのデカールやライフライクのデカールはそのように正しくなっています。
今回、撃墜マークは3個のときのものにしました。
機首の照星は付いていません。
マーク類のデカールはタミヤのキットのものを使用。(インディアンヘッドは、最初はイーグルカルスのデカールを貼ったのですが、劣化していたのか乾燥したらパリパリになって割れたり剥がれたり。)
作例写真の左側のもの。

 今回作った4機目は、レイザーバックというと定番ともいえるマーキングで、レイザーバックのキットを出している多くのメーカーの指定塗装になっていますが、ちょっとした問題が浮かび上がってきました。

 5機撃墜を期にこの機体は、次のように一部の塗装・マーキングがより目立つようにされています。
機首と垂直安定板に細い白ラインが入った。
コードレターはステンシルタイプではないものになった。(各キットのデカールはステンシルタイプ)
カウリングのエッジ内側を白く塗った。
主車輪ハブカバーを白く塗った。
ランディングギアドアの縁を赤く塗った。
スピンナーを赤く塗った。(なお、ライフライクデカールの解説ではプロペラハブを白としています。確かにそのように見える写真もありますが、別の写真ではインディアンの飾りのホワイト等とは違って暗く見える写真があります。そこで今回の作例ではシルバーのままにしています。)
コックピット脇の撃墜マークの部分のパネルは、ライトブラウンのような少し明るいものに塗り直した。撃墜マーク自体の記入位置は、1個~3個のときはそのパネルの前の方から(左側面図でいうと左詰)記入でしたが、5個になってパネルの中央寄せに変更しています。
これは写真を見ていて気がついたことで、このことに言及されているものは見たことがないのですが、主翼下のラックの一部が白く塗られているように見えるのです。ラックの下部と振れ止めのところです。
マーク類のデカールは、コードレターのみイーグルカルス、他はタミヤのキットのものを使用。
作例写真の右側のもの。



 なお、イーグルカルスの側面塗装図の解説では、三番目のマーキングが1944年2月時点のもので、一番下が1944年3月としていますが、どちらも撃墜マークが5個描かれています。2月21日に3機目、3月8日に4機目の撃墜を果たしているので、2月ということであれば図に撃墜マークが5個あるのは間違い。3月15日かあるいはその直後に、このマーキングで5個の撃墜マークを入れていたかもしれませんが、確認できる写真は未見です。一番下の図はエースになってからのものなので、1944年3月といっても3月15日以降にあちこち塗り直してからということになります。

その後
 「クリブ」は通算7機撃墜で前線での勤務を終え、戦闘機パイロットの育成・教育に従事。
戦後も軍に所属し、アメリカから北大西洋ルートを空中給油しつつヨーロッパ各地に展開するためのプロジェクト、フォックス・エイブル・ワンのメンバーの一人に選ばれた。このときの指揮官はデイビッド・シリング。朝鮮戦争やベトナム戦争にも従軍。1972年に米空軍を大佐で退役。
2008年4月26日にフロリダ州タバレスで逝去(87歳)。

撃墜の記録(”Army Air Force Victories: A Daily Account” by Arthur Wyllie, 2004より)
階級  所属  撃墜機数 日付
FO 61FS   1  431126
2LT 61FS  1  440130
2LT 61FS  1  440221
2LT 61FS  1  440308
2LT 61FS  1  440315
2LT 61FS  2  440508
これを見ると2機目~7機目の撃墜時の階級は中尉ではなく少尉 


  Home>リトルチーフの塗装とマーキング P-47D レイザーバック(タミヤ 1/72)> 特集 アメリカ>2023年3月号
Vol.175 2023 Marchl.   www.webmodelers.com /Office webmodelers all right reserved /  
         editor Hiromichi Taguchi 田口博通 /無断転載を禁ず  リンクフリー
「webモデラーズ について」 「広告のご出稿について」

プラモデル模型製作特集1

TOTAL PAGE