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(Photo) Curtiss P-40E Kittyhawk Mk.Ⅰ
by コルディッツ
博物館実機写真
カーチスP-40戦闘機を傑作機と考える人は稀ですが、急場に役立つ
実用的な戦闘機と評価する人は多いようです。カタログのデータとは
無関係に、実戦で評価されるP-40には、惹かれるモノを感じます。
第二次世界大戦でオーストラリアが窮地の時に、オーストラリアで
日本軍に対抗できたのは、実質P-40だけでした。そのことを証明する
ように、キャンベラの戦争記念館はP-40を主役級で展示しています。
展示を見て考えたのですが、世界でもオーストラリアだけが、P-40を
主役に抜擢しているのではないでしょうか。
※ 本稿は博物館の標示、「エアカム・シリーズ7 キティホーク」
(鶴書房)を参照しました。
Curtis P-40E Kittyhawk A29-133 Polly
戦争記念館(キャンベラ)にて 2018年4月撮影
オーストラリアには163機のE型を提供をされて、防衛のために本土
北部やニューギニアに派遣され、日本軍と対戦しました。イギリス軍
はP-40Eを「キティホークMk.Ⅰ」と名付けたので、オーストラリア軍
も、この名称を使用しています。
展示のPolly 機は1942年半ばに船積みでオーストラリアに送られ、
同国で最初にキティホークで編成された第75スコードロンに配属され
ます。第75スコードロンのパイロットは、中東戦線から本土に戻った
ベテランを中核に構成されました。
部隊は1942年3月21日にポートモレスビーに派遣され、到着日から
日本軍相手の迎撃に参加します。翌日は日本軍のラエ飛行場を攻撃、
最初の3日間で7機のキティホークを喪い、零戦2機を撃墜しました。
風防の隙間が気になりまして…
第75スコードロンはポートモレスビーで44日間戦い、18機撃墜、
17機地上破壊のスコアを挙げて本土に帰還しました。この間の損失は
22機で、パイロット12名を喪っています。
キティホークの頭上には、坂井三郎も搭乗したことがあるという
零戦二一型 V-173が展示されています。
1942年7月25日に第75スコードロンは、やはりキティホークで編成
された第76スコードロンと共に、ミルン湾のラビ飛行場に派遣され
ます。8月11日に両部隊の22機が零戦12機を迎撃し、どちらの陣営も
4機喪失しています。これはキティホークの負けですよね。
8月24日に日本軍はミルン湾に上陸開始。以降9月6日の日本軍の撤退
まで、キティホークは空戦に加え、艦船と上陸部隊に地上銃撃と爆撃
を行ないました。この勝利は「最初の日のオーストラリア空軍第75、
第76スコードロンの活躍が決定的要因であった」とオーストラリア軍
指揮官のブレーメイ大将は評価しました。「オーストラリア最良の時」
ですね。
主翼下の弾倉パネルを開いているのを始めて見ましたが、今まで前
にではなく、左右に開閉すると思い込んでいました。着陸時の機体の
傾きを考えれば、すぐ分かりそうなモノなのに…
第75スコードロンはキティホーク装備のまま、ニューギニアで戦闘
を続けます。1943年4月14日にミルン湾に対する日本機による最後の
攻撃が行なわれます。戦隊長ウィルフレッド・アーサーはPolly機に
搭乗し、部下を引き連れて迎撃します。この時Polly機の銃は故障中
でした。この勇敢な行為に対して殊功勲章が授与されます。
日本vsオーストラリアの戦闘の一コマを、平和に拝観し、振り返る
機会を得られたのは、なんと果報者かと痛感しています。
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