<日本航空史> 日本航空 DC-4
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by 加藤 寛之 |
プラモデル コラム |
DC-4は、いわゆる大戦機だ。『航空ファン』1968年6月号の「定年を延長した傑作機 ダグラスC-54スカイマスター」によれば、アメリカの航空会社から60機の量産に入ったところで戦争が始まり、全部が軍用に切り換えられたとある。民間型は戦後の74機しかない、とある。戦後に日本航空が購入した多くがC-54の戦後改造型らしい。
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航空情報別冊『航空史をつくった名機100』(昭和46年)にも、DC-4はしっかりと採録されている。米軍はC-54とかR5Dとして大量に使っていて、終戦までに1160機が造られ、戦後民間機として79機、計1240機が生産されたとある。民間型の数が『航空ファン』1968年6月号違うが、まあ気にしない。
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軍用機として就航したのは1943年初めらしい。日本式にいえば三式輸送機で、4発ならば二式大艇がDC-4に近い時代の飛行機になる。私にとって二式大艇は大きい飛行機で、それはハセガワが飛行機モデルの初期にキット化したときの印象にとらわれているからだ。
では、DC-4と比べてどうなのか。『航空史をつくった名機100』のデータで二式大艇をみると、全幅38.0m、全長28.1m、翼面積160㎡とある。DC-4は、全幅35.8m、全長28.6m、翼面積136㎡とあって、堂々たる大きさだ。DC-4も同時にキット化されていたら、この整然と割り切った設計に米国の国力を感じたろうと思う。
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日本は敗戦で翼を失ったが、連合国国籍の航空会社として営業が認められる見込みがついて日本航空を設立したのが1951年。ノースウェストへの運行委託で同年10月に国内線が復活した。伊藤良平『航空賛歌五十年』(日本評論社)によれば、このとき、導入機材をDC-3にするのか、DC-4にするのかで意見が分かれたそうだ。戦前・戦中に日本でも使っていたDC-3で堅実な道をとるか、技術格差を埋められるDC-4にするのか、である。この時点ならば、実は大戦機とはいえ、失った数年間を埋めるにはDC-4が最良の機材だったようだ。前述『航空ファン』では、1500m級滑走路で離着陸でき、運動性も軽快とある。ただ機内の与圧はなく巡航高度が低いし、舵面は羽布張りとある。大戦機だからね。 |
掲載はすべて絵葉書で、飛行中の1枚は「高千穂」。日本航空はDC-4に山の名の愛称を付けていた。宛名面の説明に「ジェット機時代の今日でも」とあるので、1960年代初めころの印刷物だろう。
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モノクロ写真も高千穂だそうで、初期塗装が珍しい。地上で機首をこっちに向けているのは「穂高」。愛称を前から後ろに向かって書いていたことが分かる。現在は見ることが減ったが、昭和時代には商用車に社名を書くときに前から後ろ方向へと書くことが多かった、というよりはそういうものだった。日本航空のDC-4も、その慣習にあわせていたことが分かって面白い。
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もう1枚は、タラップを登る旅客というのどかな景色。
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3枚目と4枚目の地上風景の2枚は「東京国際空港見学記念第2集」絵葉書セットのもので、つまり羽田である。いつの時代のものかはハッキリしないのだが、同梱の絵葉書に日本航空のDC-6Bが写っているもののジェット旅客機の姿はない1枚があるので、1960年代前半だろうか。このセットには2枚連続の空港ビル画像もあったので、これをオマケで掲載しておく。 |
蛇足:聞いた話だが、ある自動車販売店がお客様に頼まれて、商用車の社名アルファベット表記まで前から後ろに向かって書いたことがあったそうだ。そうしたところ右の運転席側はさすがに読めず、すぐに後ろから前へ読むように書き直したそうである。日本語の場合はその場で読む方向を判断するのだが、それはかなり特殊な慣習かもしれない。 |
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