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誌上個展

<日本航空史> お客1人のパシフィックアロー

  by 加藤 寛之
プラモデル コラム

(1)日本航空の広報小冊子から


 DC-6Bは、日本航空の海外進出を支えた機種でとても意味があるのだが、私にはまったく存在意識がない。子どものころに興味を持たなかったからだと思う。飛行機としては、DC-4の装備等を更新して胴体をストレッチした型式で、外観はいかにも輸送機然としている。実際、軍用輸送機として原型が開発され、米軍陸軍航空隊がダグラス社に資金提供をしたのだそうだ。

(2)写真


 日本航空はDC-6Bをアメリカへの太平洋路線に就航させるために購入を決め、パシフィックアローの愛称で就航させた。当時はもっとも優秀な長距離旅客機で注文が殺到、発注から受領まで3年待ちだったそうだ。そこまで待てない日本航空は、他社発注機を発注原価125万ドルに60万ドルのプレミアムを支払って2機入手したのだという。それなのに1954年の就航当初はパンアメリカン航空のほぼ満席に近い盛況に対して、お客1人ということさえあったそうだ。DC-6Bの時代のことだと思うが、頑張った日航ではあったが当時は定時運行も難しかったようで、国際線に乗り出したが頻繁に遅れる日航に対して「Japan Always Late」と言ったらしい。これを笑ってはいけない。敗戦からまだ10年にもならない、この苦しい日々を乗り越えて日本は発展したのだから。その後にサービスに努めた成果で、1959年夏には太平洋路線でパンナムと日本航空でほぼ五分五分に改善されたそうだ。

(3)カラー絵葉書


 当時の日本航空のパンフレットは「国際線用長距離機に必要なあらゆる性能を備えた、現代の大型旅客機の典型です」と誇らしげに記して、巡航速度は毎時520kmとある。日本航空のホームページには「1954年2月2日の国際線定期便開設(東京ーサンフランシスコ)に備え導入した。1950年代の国際線主力機で、チャーター機1機を含め計10機を保有していた。座席数36~58席(国際線仕様)、巡航速度450km/h」とある。あれ?巡航速度がだいぶ違うけど、まあいいや。 

(4)カラー絵葉書


 資料としての写真や絵葉書等の蒐集過程で、いつのまにか集まったものから6点を選んでみた。(1)は日本航空の広報小冊子から、(2)は誰かが撮った写真。(3)~(5)は絵葉書。それで気付いたのだが、カラー絵葉書(3)~(5)は、印刷加工が激しい。絵葉書のような広報材料の場合、写真加工でメーカー所有機を発注会社塗装に変えたり、社名や文字をクッキリさせたりすることは普通にあることで、日本航空のコンコルドの絵葉書だって存在する。広報の大事さとか、印刷物としての面白さを分かったうえで、航空史の一つとして観ると面白いと思う。ヤシの木を手前に配した画像は、当時の日本航空の国際線進出の意欲を感じさせて、いかにもDC-6Bにふさわしい。並んだスチュワーデスの方々の絵葉書も、海外へ羽ばたく姿のようで誇らしげにみえる。

(5)カラー絵葉書


(6)はDC-7Cの可能性もあるが機内サービスの様子の絵葉書で、ファーストクラスだろう。頑張って、頑張って、頑張って、世界の一流に追いつきたい、そんな姿に見える。 

(5)機内サービスの様子の絵葉書


 蛇足だが、スチュワーデスという女給仕人を表す用語から、このころに海外の航空会社は女主人を表すエアホステスに改称したそうだ。仕事を認めて格式を上げたということだろう。日本でも1961年にエアホステスに改称したのだが不評で(それはそうだろう)、1966年に再びスチュワーデスに戻したそうだ。スチュワーデスという言葉は、機上勤務女性を表す立派な日本語になっていた。今日ではスチュワーデスという言葉も古くなったが。
 今回の記事は、伊藤良平『航空賛歌五十年』(日本評論社)をおおいに活用させていただいた。


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