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CARRIER AIR WING FIVE

CVW-5

Part 3                                                    Photo. U.S. NAVY

by Kiyoshi Iwama

Tip of the Sword” 、CVW-5のハンガーに描かれた彼らのスローガンである。空母を守る剣の先は、彼ら自身であり、「剣の先の如く鋭くあれ」と戒めている。またそれは遠く母国を離れ、太平洋の西岸に置かれた剣の先をも意味するように思われる。海外を拠点とする米海軍唯一の空母航空団としてCVW-5が厚木基地に本拠地を置いて、35年が過ぎた。その間、飛行隊の編成や使用する航空機も大きく変わり、その年月の長さを感じさせる。もう少しで在日40年を迎えるが、そのとき彼らは、その記念日を岩国基地で迎える。
我々飛行機ファンを大いに楽しませてくれたCVW-5であるが、厚木基地での活動も残り少なくなった。これを機会に、CVW-5のこれまでを振り返ってみたい。

第3話 朝鮮戦争勃発

 1948年9月1日付で名称が変更になったVF-51とVF-52は、この時点では機種こそ違え、ジェット機を運用する海軍の数少ない飛行隊であった。特にVF-52は、ジェット機への転換訓練飛行隊として、空軍から借り受けたTO-1(空軍名称P-80C)で、海軍・海兵隊のジェットパイロット養成に明け暮れていた。

丁度この頃、北米大陸の反対側にあたるニューヨーク州ベスページのグラマン社では、F9F “Panther”の開発と生産が進められていた。F9Fの誕生は難産といっても過言ではなく、1947年11月21日に初飛行した試作機XF9F-2は、その後の試験で蛇行飛行を頻発するとともに、縦方向の不安定性を生じるなど空力特性の問題が顕在化し、その対策に多くの時間を費やしていた。またもう一つにエンジンの問題があった。F9F-2のエンジンには、ロールス・ロイス社の遠心圧縮型ターボ・ジェットエンジン ”Nene”が選ばれ、これをJ42としてTaylor Turbine Corporation社がライセンス国産しすることになっていた。一方で、海軍はJ42の生産計画に不安を抱き、リスク軽減策として出力はJ42に比べ低いものの、生産面で信頼できるAllison社のJ33を搭載したF9F-3を、並行して生産するようグラマン社に指示を出した。時間が経つと海軍の心配は的中し、XF9F-2へ搭載する時期になってもJ42は一向に完成せず、テーラ・タービン社は急遽6基のNeneをロールス・ロイスから輸入し、グラマン社に納める結果となった。このため海軍はさらなる計画の遅れを恐れ、テーラ・タービン社に対しNeneエンジンのライセンス生産権を実績あるPratt & Whitney社に移譲させ、以降P&W社がJ42の生産を担当することになった。


1948年に試験飛行を続けるGrumman XF9F-3(手前)とXF9F-2(後方)

出展:US Navy Naval Aviation News December 1948


こうしてF9F-2とF9F-3は並行して生産されたが、J42の遅れからJ33-A-8を搭載したF9F-3の生産が先行し、1948年の8月から翌1949年の11月までの間、54機のF9F-3が海軍に引き渡された。F9F-3の最初の実戦配備はCVG-5のVF-51で、1949年5月8日に引き渡しが始まり、順次FJ-1と交替していった。こうしてCVG-5は、初のパンサー飛行隊を擁する空母航空群となる。

一方F9F-2の量産1号機は、1949年8月にようやく初飛行に漕ぎつけた。そしてF9F-2が最初に引き渡されたのが、フライト・デモンストレーション・チームの”Blue Angels”であった。その数日後にはノースカロライナ州MCAS Cherry Pointの第115海兵戦闘飛行隊、VMF-115にも引き渡され、これがF9F-2の初の実戦部隊配備となった。また、この年の秋にはNAS San DiegoのVF-11が海軍初のF9F-2飛行隊となる。その後はF9F-2の生産も順調に進み、太平洋艦隊を中心に、海軍、海兵隊の航空部隊へ順次配備されていく。


サンディエゴ沖合のCV-21”USS Boxer"艦上で発艦準備に入る
VF-51のF9F-3(1949年9月)
出典:US Navy Aircraft Carrier Photo Archive #NS022136



さて、ジェットパイロットへの転換訓練に明け暮れていたVF-52にも実戦飛行隊復帰への時が迫っていた。

フロリダ州ペンサコラの海軍予備航空基地 NAAS Whiting は、6000ftの滑走路を4本も有す広大な基地で、1948年には、300機のSNJを擁する第1基本訓練隊、BTU-1 が海軍、海兵隊パイロットの初等飛行訓練を行っていた。この広大な飛行場に着目した海軍は、ジェットパイロットを養成する部隊をこの地に編成する決定を下す。そして1948年7月、ジェット訓練航空隊、JTU-1が編成され、NASノースアイランドで転換訓練を行っていたVF-52から訓練用ジェット機TO-1が移管されてきた。また9月にはF9F-2を受領したばかりの”Blue Angels”もJTU-1傘下に入り、NAAS Whitingは、一層の賑わいを見せた。

TO-1を放出したVF-52にはVF-51と同様にF9F-3が引き渡され、いよいよ戦闘飛行隊としての訓練が始まる。しかしながら、F9F-3に搭載されたJ33ーA8(出力4,600lb)のパワー不足は、いかんともし難く、海軍は早々に、F9F-3のエンジンを出力5,750lbのP&W製のJ42に換装することに決定。こうして1949年10月には、VF-51とVF-52が使用するF9F-3全機のエンジンが換装された。この短期間でエンジンの換装が完了できたのは、当初から両エンジンが搭載できるように設計されていたこと、そしてまだシステムがまだそれほど複雑でなかったことによるものと思われる。
こうしてジェット化が完了したCVG-5は、翌年の初夏にCV-45 “USS Valley Forge”と共に5年ぶりに西太平洋へ展開することになる。

さて、ここまでVF-51とVF-52について述べてきたが、他の飛行隊についても触れておきたい。長い陸上生活の間にVF-51、-52以外の飛行隊にも変化が起こっていた。

長年SB2C ヘルダイバー を運用してきたVA-54も機種変更の節目を迎え、1948年4月19日からF4U-4 コルセアの受領が始まる。それでもヘルダイバーの運用は、1949年5月19日の最終飛行を迎える日まで続き、VA-54はSB2Cを運用する最後の艦隊飛行隊となった。その後1949年5月にはAD-1 “Skyraider” に、そして1949年10月にはAD-4へと機種変更を行っている。しかし、海軍の空母航空群編成への方針変更により、1949年12月1日に解隊となった。このためCVG-5には同日付で、VA-54に替わる戦闘飛行隊 VF-152 “Copperheads” がNAS Alameda から着任した。VF-152は、VA-54が残していったAD-4を使用していたが、2週間後の12月14日には新しいF4U-4B コルセアの引き渡しを受けた。そして1950年2月15日付でVF-152からVF-54 “Copperheads”へと呼称変更される。

もう一つの攻撃飛行隊であったVA-55は、そのままCVG-5に残り、1949年6月18日にTBM-3J “Avenger” からAD-1へ、また1949年10月3日にはAD-4へと機種変更を進めた。また、CVG-5には正規飛行隊が1個追加された。それは1948年8月16日付で新たに編成されたVF-53 “Blue Knights” である。この飛行隊は、編成当時F8F-2 “Bearcat” を使用していたが、1949年に入りF4U-4Bに機種変更している。こうして、CVG-5の正規飛行隊はVFが4個、VAが1個の5個飛行隊で構成されるようになった。

さらにこの時期、CVG-5には、夜間戦闘や写真偵察など特殊ミッションを担う、いくつかの分遣隊が派遣されている。次にこれらの飛行隊について述べる。



VC-3F4U-5N夜間戦闘機

出典:http://aviationartstore.com/guy_bordelon_2.htm



海軍では1940年代の後半から1950年代の前半にかけ、異なるミッションや、哨戒、写真偵察、早期警戒、全天候戦闘といった特別なミッションを担う部隊を“混成飛行隊(VC)"として数多く設けた。例えば、VCナンバーの1ケタ台は、夜間の攻撃、戦闘混成飛行隊、10番台は艦載早期警戒混成飛行隊、20番台と30番台は対潜混成飛行隊、60番台が写真偵察混成飛行隊といったように区分された。後年これらの飛行隊には、VPとかVAW、VQ、VFPといった特定の呼称が与えられることになるが、この時代はVCに統一され、部隊番号で区分けし、空母航空群に適時分遣隊を派遣するという形で運用されていた。

こうした背景のもと、CVG-5にはこのとき、当時太平洋地域で唯一の全天候戦闘飛行隊であった第3混成飛行隊から夜間戦闘機F4U-5Nを装備するC分遣隊(VC-3 DET-C)が、また同様にカリフォルニア州のサンディエゴを本拠地とし、太平洋艦隊の艦載早期警戒部隊であった第11混成飛行隊から、AD-3Wを装備する分遣隊(VC-11 DET)が派遣されてきた。また写真偵察部隊は、海軍の部隊ではなくカリフォルニア州の海兵隊航空基地MCAS El Toroを本拠地とする第1海兵航空団司令部飛行隊から、F4U-5Pを装備する分遣隊(MAW-1 HEDRON-1 DET)が派遣された。さらに作戦支援部隊として、救難、輸送、監視など様々な任務に対応する第一ヘリコプター多用途飛行隊の分遣隊(HU-1 DET)の派遣も受ける。HU-1は、1948年4月1日にニュージャージー州のLakehurstで海軍初のヘリコプター運用飛行隊として編成された部隊で、その後カリフォルニア州のNAAS Miramarへ移動し、HO3S-1ヘリコプターを運用していた。




CV-45 “USS Valley Forge"
艦上でMAW-1 HEDRON-1F4U-5Pに乗り込むパイロット。
インシグニアの横にカメラ窓が見える。

出典:US Navy Official Photo Archive #NH96998



CV-47 “USS Philippine Sea”の艦上で整備を受けるHU-1のHO3S-1
出典:US Navy Official Photo Archive #80-G-420949


このように大所帯となったCVG-5の新しい編成表を表3-1に示す。
表3-1 1945年3月17日でのCVG-5の編成

終戦から約5年が過ぎ、平和な時代となり太平洋に展開する米国の艦船も数が減った。空母についても、1949年の西太平洋への展開の記録はない。そして年が明けて1950年1月11日、CV-21 “USS Boxer”がCVG-19とともにサンディエゴを、久しぶりの西太平洋展開へと旅立った。

6月にはサンディエゴへ帰港予定であるCV-21”USS Boxer"と交替するのが、CV-45 “USS Valley Forge"とCVG-5であった。そして1950年5月1日、出港の準備を整えたヴァリー・フォージは、別れを惜しむ見送りの家族を残し、サンディエゴの港を離れていく。広大なNAS North Islandを左手に見ながらゆっくりと太平洋に出ると、艦載機の収納が始まる。静かな飛行甲板は一変し、次々と着艦してくる機体の収納に追われた。艦載機の収納が終わると、再び静寂が戻り、ヴァリー・フォージはゆっくりと西方に舵をきった。


艦載機を満載にして佐世保に停泊するCV-45 “Valley Forge” 後方に見えるのは、CV-32 “USS Leyte”
出典:US Navy Official Photo Archive #80-G-426270

1950年6月25日、太平洋を横断し香港の港に停泊していたヴァリー・フォージに急電が入り、平和な休息は一転する。電信の内容は、北朝鮮軍が38度線を越え、韓国への侵攻を開始したというものであった。ついに朝鮮半島での緊張の糸が切れたのである。ヴァリー・フォージは直に出港の準備を進め、翌日フィリピン、ルソン島のスビック基地へ急行する。ここで燃料や物資の補給を行い、再び北上し、作戦域へと向かう。
(この章終わり)


1950年の艦載機の塗装

 (出典:WINGS PALLETE http://wp.scn.ru/en/



© Michael E. Fader, www.wings-aviation.ch
Grumman F9F-3 Panther of VF-51, CV-45 USS Valley Forge in 1950



© Michael E. Fader, www.wings-aviation.ch
Douglas AD-4Q Skyraider of VA-55, CV-45 USS Valley Forge in 1950


Source: ‘MiG Alley- Air to Air Combat Over Korea’
By Larry Davis, A Squadron/Signal

Chance Vought F4U-5N Corsair of VC-3, CV-45 USS Valley Forge in 1950



Sikorsky HO3S-1 ofHU-1,



 

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