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CARRIER AIR WING FIVE

CVW-5

Part 8                                                    Photo. U.S. NAVY

by Kiyoshi Iwama

Tip of the Sword” 、CVW-5のハンガーに描かれた彼らのスローガンである。空母を守る剣の先は、彼ら自身であり、「剣の先の如く鋭くあれ」と戒めている。またそれは遠く母国を離れ、太平洋の西岸に置かれた剣の先をも意味するように思われる。海外を拠点とする米海軍唯一の空母航空団としてCVW-5が厚木基地に本拠地を置いて、35年が過ぎた。その間、飛行隊の編成や使用する航空機も大きく変わり、その年月の長さを感じさせる。もう少しで在日40年を迎えるが、そのとき彼らは、その記念日を岩国基地で迎える。
我々飛行機ファンを大いに楽しませてくれたCVW-5であるが、厚木基地での活動も残り少なくなった。これを機会に、CVW-5のこれまでを振り返ってみたい。

これまでのあらすじ

資料記事
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 第7話 東西冷戦、朝鮮戦争後
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 第6話 朝鮮戦争(後編)
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 (第5話)朝鮮戦争(中編)
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 (第4話)朝鮮戦争(前編)
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 (第3話)朝鮮戦争勃発
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 (第2話)ジェット時代の夜明け
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5(第1話)誕生

第8話 ヴェトナム戦争(前編)

朝鮮戦争後の10年間、太平洋地域は比較的平和に推移した。しかし東西冷戦は深まりを見せ、60年代の入ると欧州では61年8月に東西ベルリンを物理的に隔てるベルリンの壁が、共産側の手により突然構築された。この不格好なコンクリートの塊は、その後も東西冷戦の象徴として約30年間ベルリンに君臨することになる。また62年10月にはソ連が核弾道ミサイルをキューバに持ち込んだことが発覚。これに対し米国のケネディ大統領はCVA(N)-65 エンタープライズ、CVA-62 インディペンデンス、CVA-60 サラトガなど8隻の空母を含む一大機動部隊をカリブ海に繰り出してキューバを海上封鎖し、ソ連がミサイルを撤去しない場合は核報復も辞さずとの強硬策に出る。この所謂キューバ危機は、13日間続き、世界を核戦争の恐怖に陥れた。しかし、ソ連のフルシチョフ首相が、米国のキューバへの軍事不介入を条件にミサイルを撤去することに合意し、この危機は回避された。

一方インドシナでは第二次大戦後、旧宗主国フランスに対する独立運動が展開された。日本軍政下でラオス、ヴェトナム、カンボジアの3国は1945年3月に独立を果たしたが、日本の敗北により状況が変わってきた。ヴェトナムではホー・チ・ミン率いる共産系のヴェトナム独立同盟会(ヴェトミン)が、日本軍政下で独立していたヴェトナム帝国を倒し、1945年9月2日に北部ヴェトナムにヴェトナム民主共和国を樹立する。しかし連合国のインドシナ統治案は既に決定しており、日本軍の武装解除後、旧宗主国のフランスに引き渡すことが取り決められていた。インドシナに戻ってきたフランスはヴェトナム民主共和国の独立を拒否する。このため、各地で独立を求めるヴェトミンとゲリラ戦が始まり、苦渋の末フランスは、1946年3月にフランス領内の自治国家としてヴェトナム民主共和国が北部のトンキンと、中部のアンナンを自治することを認めた。



ヴェトミン軍の総司令官ヴォ―・グエン・ザップ(左)と
ホー・チ・ミン(1945年ハノイにて)
出典:http://en.wikipedia.org/wiki/Ho_Chi_Minh

しかしフランスが手放したくなかった豊かな南部のコーチシナについては、コーチシナ共和国を成立させる。これに反発したヴェトナム民主共和国に対し、46年12月19日にフランスは武力攻撃を開始。この紛争は瞬く間にラオス、カンボジアへと飛び火し、第1次インドシナ紛争に突入する。フランス軍は都市部を制圧するものの、ヴェトナム人民軍は、山岳部へ逃げ込み、ゲリラ活動で対抗した。装備等で勝るフランスは攻勢に出、一時はハノイをも陥れる。そのまま押し切れると見たフランスはヴェトナム全土を支配下に置くことを夢見、その工作を始めた。そして1948年5月に強引にグエン・バンスワンを大統領とするヴェトナム全土を統轄するヴェトナム臨時中央政府をサイゴンに作り上げた。さらにはこの臨時中央政府をフランス連合内の自治国として独立を承認する行為に出る。しかし面白いことに南部のコーチシナ共和国ではゲリラの横行する北部との統一を拒み、統一反対運動がおこり収拾がつかなくなる。このためフランスは1949年6月14日グエン朝最後の皇帝、バオ・ダイ帝を元首に据え、旧サイゴン(現ホー・チ・ミン市)を首都とするヴェトナム国を樹立させた。そしてさらに、7月にはラオス王国、11月にはシアヌーク国王にカンボジア王国のフランス連合内独立を認めた。


インドシナの地図

しかしながら中国の支援を受けてヴェトミン軍は、山岳地帯で攻勢に出、農村地帯はヴェトミン軍が押さえるという情勢が強まってきた。こうした状況から米国は、フランスとヴェトナム国との3者会談を開催、インドシナへの軍事支援を決定した。そして朝鮮戦争の最中の1950年12月、軍事支援を正式に開始する。しかし米国の介入はその3か月前から始まっていたのである。8月4日には軍事顧問団(MAAG: Military Assistance Advisory Group)がサイゴンに到着、ヴェトナム国軍の教育にあたった。また10月末には支援機材の一つとして米海軍はフランス軍に対し、F6Fヘルキャット、F4Uコルセア、F8Fベアキャット等の戦闘機の供与を始める。こうした米国の軍事支援は、その後4年間で総額26億ドルに上った。このなかには、海軍関係だけで、2隻の軽空母、水陸両用艇や河川のパトロールボートなど438隻、そして航空機500機などが含まれていた。


フランスに供与された米海軍の軽空母USS Belleau Wood(仏海軍名:Bois Belleau)1953年
出典:http://en.wikipedia.org/wiki/First_Indochina_War



フランスへ供与されたF4U-7コルセア(写真は元アルゼンチンのF4U-5NLを改造したもの)
出典:http://en.wikipedia.org/wiki/First_Indochina_War

こうした米国の支援にもかかわらず、フランス軍は徐々にヴェトミン軍に拠点を奪取され、後退を余儀なくされた。そして1954年に入ってもヴェトミン軍の攻勢が続き、5月のディエン・ビエン・フーの戦いでフランス軍は決定的な敗北を喫する。アイゼンハワー大統領はフランス軍支援のため、東シナ海に空母任務部隊とその支援部隊を派遣するものの、政治的配慮から結局攻撃命令を出すに至らず、5月7日、フランス軍のディエン・ビエン・フー要塞最後の守備隊がヴェトミン軍に降伏し、フランス軍はインドシナに拠点を失うことになった。

戦いの一方で、4月の末からはインドシナ紛争の関係国がスイスのジュネーブに集まり、停戦の協議が進められた。そして、ディエン・ビエン・フーでの勝敗が決着した後、交渉は一気に進む。約2ヶ月後の7月21日、ジュネーブ会談は、①ヴェトナムの北緯17度線付近を東西に流れるベン・ハイ川に沿って境界線を設け、北側にヴェトミン軍、南側にフランス軍とヴェトナム国軍が集結する。②同時に市民には北側か、南側かどちらに移り住むかを決定する権利が与えられる。③フランス軍はインドシナから速やかに撤退する。④国連監視委員会の下に、1956年7月に南北統一選挙を行う。といったことで合意し、停戦協定が締結された。

ジュネーブ協定の結果、ヴェトナム国の元首バオ・ダイ帝は、反共主義のゴ・ディン・ジェムを首相に指名する。しかし、米国の後ろ盾を持つゴ・ディン・ジェムは、翌年の1955年4月、国民選挙を行い共和制への移行を問う。この選挙の結果バ・ダイ派が失脚、ゴ・ディン・ジェムはヴェトナム国を共和制へと移行させ、1955年10月26日、ヴェトナム共和国(南ヴェトナム)を樹立し、初代大統領に就任する。大統領に就任したゴ・ディン・ジェムは、1956年に実施することになっていた南北統一選挙の実施を拒否。これは明らかに協定違反であったが、ヴェトナムの共産化を恐れる米国は、ゴ・ディン・ジェムを支持した。ホー・チ・ミン率いるヴェトナム民主共和国は中ソの支援を受け共産主義化していた。このため統一選挙の結果は火を見るより明らかで、ヴェトナムの共産化はドミノ倒しの様に東南アジアへ拡大していくという考えが、米国政府内に蔓延していた。米国の支持を得たゴ・ディン・ジェムは、国内の共産主義者や反政府活動家への弾圧を強めていくが、一方で国民の支持を失っていった。

ジュネーブ協定が遵守されなかったことにより、南北統一を目指していたホー・チ・ミンが採る道は武力闘争しかなかった。南ヴェトナムの中にゲリラ組織を築き武力解放につなげようと、1960年の末に南ヴェトナム解放民族戦線(所謂ヴェトコンで、正式名称はNLF: National Liberation Front である)を結成した。そして南ヴェトナム政府と南ヴェトナム政府軍に対してゲリラ活動を開始、結果的に南ヴェトナムは内戦状態に入って行く。

1961年1月、第35代の合衆国大統領に就任したジョン・F・ケネディは、ヴェトナムへの対応について検討する特別委員会の設置を指示するとともに、統合参謀本部に対してもヴェトナムへの対応策の提言を求めた。大統領からの要請に対し両者からは、共産軍の活動に対し米軍による南ヴェトナム支援が必要との提言が戻ってきた。



ホワイトハウスで語らうケネディ大統領とマクナマラ国防長官
出典:http://ja.wikipedia.org/

この後のキューバのピッグス湾事件での対応に見られるように、共産圏に対するケネディの政策は、やや強行的な面が見られた。今回の場合も、提言を受けて、南ヴェトナムへの軍事顧問団の派遣と軍事物資の支援をすることを決定した。このため、アイゼンハワー政権下では685人であった軍事顧問団の規模が1961年末には3,164人へと増加し、さらに1962年2月には軍事顧問団を軍事支援軍に格上げし、その数は1963年11月には16,263人まで膨らんだ。加えて、戦車、重火器、戦闘機、武装ヘリコプターなどあらゆる兵器類の支援を続け、米国は第2次インドシナ紛争と言われる泥沼の戦いに入りこんでいった。

この間、反政府抗議を続ける仏教徒など反政府勢力に対し、力ずくの弾圧を続けるゴ・ディン・ジェム大統領とケネディ大統領の間で不協和音が生じ始める。そして1963年11月2日に南ヴェトナム軍の親米勢力がクーデターを起こし、ゴ・ディン・ジェムはサイゴン市内で暗殺されれ、南ヴェトナムの混迷は広がっていった。さらに20日後の11月21日、今度はケネディ大統領が遊説中のダラスで凶弾に倒れるという悲劇が起った。ケネディ大統領の後を継いだジョンソン大統領とマクナマラ国防長官は、一層ヴェトナムへの軍事介入を深めていく。


揚陸艦に姿を変え南ヴェトナムにUH-34を輸送するUSS Valley Forge
出典:US Naval Official Photograph # USN 1104168



海軍も多くの将兵を軍事顧問団としてインドシナへ派遣し、南ヴェトナム海軍の将兵の教育、訓練、そして武器や装備の供与という形で支援していた。特に1961年11月のケネディ大統領の南ヴェトナムへの支援拡大決定の結果、海軍も空母任務軍のような大規模艦隊を紛争地域へ展開させるようになった。1961年12月の初めには、第7艦隊とヴェトナム海軍は共同で南北の境界線である北緯17度線から東のパラセル諸島に向け空海のパトロールを始めた。パトロールの目的は、南ヴェトナム海軍の訓練と、海上からの北ヴェトナムからの弾薬輸送を発見するためであった。

第7艦隊の航空部隊も共産軍と戦う南ヴェトナム軍を支援した。1961年の秋には、南シナ海へ空母タイコンデロガとともに展開していたCVW-5の写真偵察飛行隊、VFP-63のF8U-1Pがインドシナ半島の中央高地の偵察飛行を行った。CVW-5としては、これがヴェトナムでの最初の直接支援行動となった。さらに9月と10月に入るとA3D-2PとF8U-1Pが、共産ゲリラの北ヴェトナムから南ヴェトナム、あるいはラオスなど周辺国への潜入ルートを探ってのランダム偵察ミッションを敢行している。


VFP-63のF8U-1P(写真の機体はUSS Hancockに搭載されたF8U-1P)
出典:http://www.usscoralsea.net/pages/aircraft.php

しかし南ヴェトナムでのゲリラ戦では成果を出せずにいた。北ヴェトナムの共産軍は、南ヴェトナムの反政府分子に対する支援を、主にラオス経由で行っていた。こうした侵入・輸送経路を絶つため、ジョンソン政権は、ラオスと北ヴェトナムに対し、軍事的圧力を増強する政策をとるようになった。このため海軍にはOperation Plan 34-Aという秘密作戦の遂行が命じられた。この作戦は1961年にCIAの下に始まった極秘作戦で、特別に製作されたPTF魚雷艇を使用して北ヴェトナムの沿岸にある施設や基地を爆破するプログラムであった。1964年にCIAから国防総省に引き継がれ、海軍が担当することになった。しかし実際にPFT魚雷艇に乗って活動するのは南ヴェトナムのフロッグマンと乗員で、彼らはダナンに設置された米海軍軍事顧問団の分遣隊によって教育・訓練されていた。そして海軍にとって最初のこの作戦は1964年2月に実施された。

一方で海軍と空軍が協力して共産ゲリラの侵入路を低空偵察する作戦が遂行された。海軍からは、当時ヤンキー・ステーションに進出していたCVA-63 ”USS Kitty Hawk”に搭載されていた2機のRF-8Aが参加した。このチームは”Yankee Team” と呼ばれ、5月21日に結成されている。彼らは空軍機とチームを組み5月21日から7月9日の間、ラオスのジャール平原付近を130回以上飛行し、共産軍の侵入経路をつきとめた。しかしその間、対空砲火により撃墜され、捕虜になるパイロットも出た。低空偵察は危険を伴うため、高空偵察に切り替え実施したが、やはり情報の質が低下した。この時海軍からはRF-8Aの他、RA-3Bに加え、新鋭のRA-5Cも参加している。

紛争の真っただ中にあるインドシナと比べ、遠く離れた西海岸は緊張した空気とはまだまだ無縁の世界であった。1964年の春、サンディエゴではCVW-5と空母タイコンデロガが西太平洋展開の準備を進めていた。CVW-5にとって空母との組み合わせが固定された1960年から数えると、タイコンデロガとの西太平洋展開は4度目となる。展開の準備を終えた空母タイコンデロガは、1964年4月14日にCVW-5とともにサンディエゴをあとにした。カリフォルニア沖での訓練を終えた後、一路ハワイへ。そしてハワイ沖でも訓練に励み、真珠湾に接岸した。ここで短期間の休息をとり5月4日に真珠湾を出港し極東へと向かった。このクルーズでのCVW-5の編成を下の表に示す。

表8-1 1964年4月14日~12月15日の西太平洋/ヴェトナム展開時のCVW-5の編成





太平洋を進むCVA-14 USS Ticonderogaの上空を飛行するCVW-5の編隊


真珠湾を発った後、空母タイコンデロガとCVW-5は佐世保、フィリピンのスビック・ベイを経由して7月には南ヴェトナムのダナン沖のヤンキー・ステーションに到着した。ここでのCVW-5のミッションは空からの哨戒や写真偵察、電子偵察が中心である。特に戦闘飛行隊の哨戒任務は、いつでも戦闘状態に入れるように実弾を装備したCAP(Combat Air Patrol)任務であった。そして海上の哨戒任務は駆逐艦が受け持った。そして8月に入ってこの紛争をさらに拡大するきっかけとなる「トンキン湾事件」が起こる。その状況を少し詳しく紹介しておく。


トンキン湾とヤンキー・ステーション



米海軍は、 “DeSoTo”パトロールと呼ばれる情報収集活動を以前から進めていた。これは海軍の艦艇に公海上を、中国、北朝鮮、ソ連の沿岸を航行させ電子情報収集を行うプログラムであった。海軍はこの作戦を北ヴェトナム沿岸でも開始した。1964年2月25日から3月6日の間、駆逐艦DD-885 “USS Jhon R. Craig”がその任に充てられた。幸いにしてこの間は霧が出たため、相手側からはこのパトロール・ミッションは確認されなかった。そして海軍の上層部は再度その作戦の実行を命じてきた。今度は駆逐艦DD-731”Maddox”に命令が伝えられた。任務は、Vin Son沖のHon Me、Hon Nieu、Hon Mattの各島の付近まで北ヴェトナムの地形や水理、また海軍の施設や基地の偵察であった。そして駆逐艦マドックスが丁度トンキン湾に向けて出港する7月30日の夜明けに、もう一つの作戦Plan 34Aが実行に移された。4隻のPFT魚雷艇がHon MeとHon Neiuの北ヴェトナム陣地に砲弾を撃ち込んだのである。トンキン湾へ向かうマドックスは途中引き上げてくる4隻のPFTとすれ違ったが、気付くことはなかった。そうしてマドックスはトンキン湾へと入り、7月31日と8月1日の両日、公海上を航行しながら北ヴェトナム側の情報収集に努めた。そして8月2日の10時45分頃Thanh Hoaの沖合に到着した。


駆逐艦DD-731 USS Maddox
出典:http://en.wikipedia.org/wiki/USS_Maddox_(DD-731)


それから2時間後、駆逐艦マドックスのレーダースクリーンにHon Meの北側からこちらに接近してくるいくつかの輝点が映った。北ヴェトナム艇と察した艦長のHerrick大佐は、北ヴェトナム領海から遠ざかるよう増速を指示したが、輝点はなおも接近を続ける。このためHerrick艦長は、状況を司令部に連絡するとともに航空支援を要請した。そして16:08に接近する北ヴェトナムのP-4魚雷艇に向け5”砲を3発、警告射撃した。立ち上る水煙の合間に北ヴェトナム軍の3隻のP-4ボートが確認された。接近をやめない3隻のボートに対し、マドックスは攻撃のための射撃を開始した。これに対抗するように、2隻のP-4ボートが魚雷を放つ。このためその後の20分間、2,200トンのマドックスは、魚雷の回避運動をとり続ける一方で、機関銃掃射を続けた。北ヴェトナム軍側もこれに機関銃で応戦する。そして3隻の魚雷艇がマドックスの艦尾を通り抜ける瞬間、マドックスの銃弾が魚雷艇をとらえた。マドックス側も魚雷艇から撃たれた14.5mmの銃弾を1発受けたが、大事には至らなかった。


駆逐艦マドックスに攻撃を仕掛ける北ヴェトナムの魚雷艇
出典:National Archive Photograph # NH95611



1964年8月2日の駆逐艦マドックスの航跡


こうして駆逐艦マドックスがトンキン湾外に逃げ延びたとき、VF-53所属の4機のF-8Eが飛来し、北に向かって逃走する北ヴェトナムの魚雷艇に向け攻撃を開始した。4機のクルーセイダーはズーニ―ロケット弾と20mm機関砲を浴びせ、1隻のP-4ボートが炎上、沈没し、残りの2隻も損傷を受けた。VF-53のF-8Eは無事、空母タイコンデロガに帰りつき、CVW-5にとってヴェトナムにおける初の戦果を記録した。またこの4機のF-8Eは飛行訓練のため上空にいたこともあり、短時間で現場に急行できたものである。一方駆逐艦マドックスは、南方で空母任務部隊を護衛していた駆逐艦DD95 “USS Turner Joy”に随伴され帰路に就いた。短時間の交戦であったが、これが北ヴェトナムとの戦いを新しい局面に向かわせる引き金となる。

しかし争いはこれで終わらなかった。ワシントンは駆逐艦マドックスとターナー・ジョイに再び北ヴェトナム沿岸の偵察を命じた。この時情報筋からは、Plan 34A作戦とDeSoToパトロールについて北ヴェトナムが察知しており、再び攻撃を仕掛けてくる可能性があるという情報が発せられていた。さらにワシントンは、香港に寄港中の空母コンステレーションに対して、トンキン湾へ急行するよう命じた。




タイコンデロガの甲板でズーニーロケット弾をVF-53のF-8Eに装填する地上クルー
出典:US NAVY Official Photograph


翌8月3日の明け方、2隻の駆逐艦は命令を受け北ヴェトナム沿岸に向かってトンキン湾に入った。そしてさらに海岸沿いに北へと向かいHon Me島を通り過ぎ、今度は東へ向けトンキン湾の真中に向かった。このとき240マイル南のダナンではもう一つの作戦の準備が進んでいた。それはPlan 34Aであった。8月3日の深夜、南ヴェトナム兵の操縦する3隻のPTF魚雷艇がHon Meの南95マイルにあるドック岬沖の作戦地域へ到着した。ここで彼らはVinhSonにある北ヴェトナム軍のレーダ施設やロン河南岸の守備隊駐屯地に砲弾を撃ち込み、急いでダナンへと引き返した。

こうした事態を知ることなく、駆逐艦マドックスとターナー・ジョイはその夜をトンキン湾で過ごし、翌朝(8月4日)7時に情報収集のため北ヴェトナム沿岸へ舳先を向けた。そして2隻の駆逐艦は北ヴェトナム沿岸から16マイル以内に入らぬよう気を付けながらもと来たコースを北から南へと戻り、また反転して、夜には湾の中央に戻った。そして20時4分、2隻の駆逐艦のレーダが近づいてくる航跡を捉えた。直ちにマドックスのHerrick艦長はコース変更を指示する。そして22時39分、レーダ目標の一つが7,000ヤードに近づいたとき、Herrick艦長は駆逐艦ターナー・ジョイに発砲を命じた。そのときソナー手が魚雷発射音を聞く。その後2時間、2隻の駆逐艦の乗員は魚雷の回避運動と敵艦への射撃でくたくたになったが、幸両艦とも被害なく、トンキン湾入り口に急行した空母タイコンデロガまでたどり着いた。この間CVW-5の飛行隊が両艦上空をカバーしたが敵艦らしきものを認めるには至らなかった。



ヤンキー・ステーションの揚陸艦キアサージを右に見て飛行するVA-146のA-4C
出典:US Navy Official Photograph #USN 1107965

その後の調査で、8月4日の北ヴェトナム側の攻撃はなかったという事実が明らかになった。しかし当時上に述べたような事態の報告を受けたジョンソン大統領は、北ヴェトナムへの直接攻撃を命じた。それによってこの紛争は、泥沼へと入っていった。
(この章終わり)



北ヴェトナムへの攻撃命令書にサインする
ジョンソン大統領


本章に関連する機体の塗装
 (出典:WINGS PALLETE http://wp.scn.ru/en/)


© Michael E. Fader, www.wings-aviation.ch

Vought F-8E Crusader of VF-51 in 1964



© Michael E. Fader, www.wings-aviation.ch

Vought F-8E Crusader of VF-53 in 1965



© Michael E. Fader, www.wings-aviation.ch

Douglas A-4E Skyhawk of VA-56 in 1964

 
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