昭和11年日本海軍はこの年に採用された複葉の96式艦爆の後継機になる11試艦上爆撃機の開発を国内の航空機メーカー三社(三菱・中島・愛知)に指示した。中島飛行機と愛知がこれに応じ試作機を海軍に納入してテストを繰り返したが両メーカー共甲乙つけ難く結果昭和14年12月愛知飛行機の試作機が採用され、99式艦上爆撃機11型(D3A1)として昭和17年まで生産された。
機体の特徴として大きな楕円翼や背びれを含む大きな尾翼とスパッツは急降下爆撃時の方向安定を高めるために取り入れた物で命中精度の向上に寄与した。
また楕円翼を採用した背景には当時愛知飛行機はドイツのハイケンル社から技術提携を受けていたのと同社から輸入したHe70高速輸送機の設計を模倣とした経緯がある
14年11月の中国戦線での地上軍の協力の為華南に派遣されたのを皮切りに鉄道や橋梁の爆撃や海軍陸戦隊の支援等に活躍した。
|
|
太平洋戦争の引き金となった真珠湾攻撃には空母赤城を筆頭に6隻の空母から129機が出撃し戦艦群と飛行場を爆撃、59~75%と命中率を記録した。続いて昭和17年4月のインド洋海戦では艦爆隊の攻撃だけで英海軍の重巡2隻と空母「ハーミーズ」を撃沈する大戦果を挙げたがこの時が99艦爆の歴史の中で最大のピーク時であった。
機動部隊の99艦爆は珊瑚海海戦・ミッドウエー海戦とアメリカの機動部隊と戦い正規空母レキシントンやヨークタウンに多大な被害を与えたがベテラン搭乗員を多く失いさらにガタルカナル島を廻るソロモン航空戦では残存の艦爆隊はラバウルの地上基地から出撃しアメリカの輸送船団を攻撃しその戦力を回復できないほど消耗した。
改良型の99艦爆22型が昭和18年に採用され運用されたが19年には主力艦爆は「彗星」に取って代わられた。
空母から降りた99艦爆は終戦まで基地航空隊から出撃しフィリピンの戦いではレイテ湾の輸送船団攻撃に使用され沖縄の戦いでは多くの99艦爆が特攻機として突入した。
正式採用されて以来6年もの間、零戦や97艦攻と共に太平戦争の激闘を最後まで戦い抜いた名機である
|