Home >今月のハイライト> CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 第9話 


CARRIER AIR WING FIVE

CVW-5

Part 9 Rev.C                                 Photo. U.S. NAVY

by Kiyoshi Iwama

Tip of the Sword” 、CVW-5のハンガーに描かれた彼らのスローガンである。空母を守る剣の先は、彼ら自身であり、「剣の先の如く鋭くあれ」と戒めている。またそれは遠く母国を離れ、太平洋の西岸に置かれた剣の先をも意味するように思われる。海外を拠点とする米海軍唯一の空母航空団としてCVW-5が厚木基地に本拠地を置いて、35年が過ぎた。その間、飛行隊の編成や使用する航空機も大きく変わり、その年月の長さを感じさせる。もう少しで在日40年を迎えるが、そのとき彼らは、その記念日を岩国基地で迎える。
我々飛行機ファンを大いに楽しませてくれたCVW-5であるが、厚木基地での活動も残り少なくなった。これを機会に、CVW-5のこれまでを振り返ってみたい。

これまでのあらすじ

資料記事
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 第8話 ヴェトナム戦争(前編)
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 第7話 東西冷戦、朝鮮戦争後
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 第6話 朝鮮戦争(後編)
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 (第5話)朝鮮戦争(中編)
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 (第4話)朝鮮戦争(前編)
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 (第3話)朝鮮戦争勃発
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 (第2話)ジェット時代の夜明け
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5(第1話)誕生

第8話 ヴェトナム戦争(中編-1)

第1次トンキン湾事件で、米軍が報復した後、北ヴェトナムも8月4日に「この事件の真相は米国の艦船が公然と北ヴェトナム領海を侵犯し、漁船を脅かしたためにとった処置で、巡視艇が米艦を追い出したに過ぎない。米帝国主義者とその追従者のこうした行為は、当然の罰を受けるであろう。」との声明を発表した。

しかしその直後、トンキン湾で米海軍の駆逐艦DD-731 “USS Maddox”とDD-95 “USS Turner Joy”が再び北ヴェトナムの魚雷艇から攻撃を受けたとの報告が伝わり、ワシントン時間1964年8月5日午後11時37分に、ジョンソン大統領はテレビに向かって声明を述べた。それはトンキン湾で発生した事件の概要と、米国の艦船が攻撃を受けたことへの報復の内容の説明であった。
(後の調査で、ソナー手が魚雷音と報告した音は、スクリューの放つビート音であったと分かる)

一方トンキン湾では、この放送が行われた時には既に、南シナ海にいたCVA-64 “USS Constellation”とCVA-14 “USS Ticonderoga”の2隻の空母から、総計64機の攻撃隊が発艦を始めていた。この”Operation Pierce Arrow”と名付けられた報復作戦に参加した飛行隊と機体の内訳は以下のとおりである。


2つの空母航空団に与えられた攻撃目標は、北ヴェトナムのホンゲイ、ロクチャオ、カンケ、ベン・チュにある4つの魚雷艇基地とヴィンの石油貯蔵施設で、それぞれ次のように割り振られた。

     ・CVW-14の目標: ホンゲイ(Hong Gai)、ロクチャオ(Loc Chao)
     ・CVW-5の目標:  カンケ(Quang Khe)、ベン・チュ(Ben Thuy)、Vinh(ヴィン)

これら施設に対する攻撃は、この日の午後1時に開始され、F-8、A-4、A-1の各攻撃機は爆弾やロケット弾を目標に打ち込み、施設の大半を壊滅状態にした。また同時に北ヴェトナムが保有する魚雷艇の約半数に当たる25隻を全壊もしくは破損に至らしめた。このときのコンステレーションとタイコンデロガからのコンバット・ソーティは60回に及び、作戦は成功裏に終わった。このため、タイコンデロガとCVW-5に対し、第1次トンキン湾事件の際の即応対処も含み、部隊勲功賞が贈られた。しかし米軍側の被害もゼロではなかった。対空砲火により2機が撃墜され、1機のパイロットは死亡、もう1機のA-4CのパイロットEverett Alvarez Jr 海軍大尉がヴェトナム戦争初の米軍捕虜となり、その後約7年半、抑留生活を送ることになる。

こうした報復攻撃に対し、8月10日に米国議会は海軍の軍事行動を承認することになる。この後少し事態が落ち着いたものの、戦果が過ぎ去ったわけではなく、海軍は次の戦いに向け着々と準備を整えていった。そして新たに攻撃空母CVA-61 “USS Ranger”と対潜空母CVS-33 “USS Kearsarge”が第7艦隊に派遣されてきた。これで第77空母機動部隊は攻撃空母3隻、対潜空母1隻を保有する大機動部隊となり、南シナ海を制圧する体制が整えられた。

一方、タイコンデロガとCVW-5は、9月になると日本の佐世保へと戻り、休養と補給の後、年末まで南シナ海に展開し西海岸への帰路に付いた。そして約8カ月のヴェトナム、西太平洋への展開を終え、1964年12月15日にカリフォルニア州ノースアイランドへと戻ってきた。CVW-5はここで翼を休め、タイコンデロガは長旅での傷みを癒すため、明けて1965年1月27日にHunter’s Pointの造船所に移動、5か月のオーバーホールに入った。


空母コンステレーションから発艦寸前のVF-142のF-4B
出典:Naval Aviation News

CVW-5が本国にいる間もヴェトナムでは戦いが続いていた。南ヴェトナムでは政府の政策に失望した市民のデモやヴェトコンのテロ活動で首都サイゴンは非常に不穏な状態にあった。そんな中、ジョンソン政権は戦争の拡大回避への舵を切った。11月1日にビエン・ホア(Bien Hoa)にある南ヴェトナム空軍基地の米軍兵舎がヴェトコンの砲撃を受け、4人が死亡、72名が負傷するという事件が起こったが、北ヴェトナムへの報復攻撃の命令は下らなかった。さらに12月24日のクリスマス・イヴには米軍独身士官の宿舎として利用されていたサイゴンのBrink Hotelが攻撃を受けた。しかし、このときも大統領は報復攻撃を許可しなかった。この攻撃で米国、オーストラリア、南ヴェトナムの100名以上の兵士が負傷し、2名の米国人が死亡した。いずれの場合にも、第7艦隊の飛行部隊は、報復攻撃に向け、航空機の発進準備を済ませていたにも拘らず。
ジョンソン政権は、東南アジア、特にラオスでの反乱活動の支援をやめるよう、北ヴェトナムに対し再度の呼びかけを始めた。このキャンペーンの一環として、1964年12月17日、空母レンジャーから飛び発ったF-4BとRF-8AにエスコートされたA-1Hが、海軍では初めての東部ラオス上空の戦闘偵察飛行を行った。この“Barrel Roll”と名付けられた海軍/空軍の統合作戦では、米国の作戦機が共産ゲリラの侵入経路上空を飛行し、共産軍の支援車両等の目標を攻撃した。しかしながら当時は、東南アジアで勝利するための米国の決意をハノイに伝えることが第1目標とされ、軍事目標への攻撃は2次的なものと考えられた。しかしながら1965年の初頭、米国の指導者たちはこれまでのヴェトナムでの活動を分析し、小規模な軍事行動では敵を食い止めることができないと結論付けた。その結果、Joint Barrel Roll部隊は再び交通要所に向かうことになる。2月28日、空母コーラル・シーから発進したA-1とA-4が、北ヴェトナムとラオスの国境に近い、Mu Gia Passに集中攻撃をかけ、3月の初めには、空軍が北ヴェトナム軍の要地であるNape Passに攻撃をかけた。両作戦の結果、北ヴェトナムの兵站ルートを重要地点で一時的には遮断できたが、北ヴェトナムはすぐさま道路を修復し、また迂回路を建設、兵站の流れを維持した。結局ワシントンは、これら一連の作戦が、政治的目標を達成できなかったと結論付けた。


空母コーラル・シーのカタパルトで射出寸前のVA-153のA-4Cスカイホーク
出典:US Navy Official Photograph #USN 1111691-A


今や一層強力な対応が必要だとの議論が高まる中、1965年2月7日の早朝に中央高地のプレイク(Pleiku)にある米軍施設がヴェトコンの襲撃を受け、8名の兵士が死亡、128名が負傷、122機の航空機が損壊するという事件が発生する。これに対し、マックスウェル・テイラー南ヴェトナム大使、マクジョージ・バンディ国家安全保障顧問、そしてジョンソン大統領が協議し、この北側の挑発行為に対しては報復攻撃を加えることを決定、海軍と南ヴェトナム空軍が協同して北ヴェトナムを攻撃する許可を与えた。この時トンキン湾に展開していた空母は、CVA-43 “USS Coral Sea”、CVA-19 “USS Hancock”、そしてCVA-61 “Ranger”の3隻であった。”Operation Flaming Dart I”と名付けられたこの作戦には、コーラル・シーのCVW-15、ハンコックのCVW-21、から49機が参加、非武装地帯の北にあるドン・ホイ(Dong Hoi)の軍事基地を攻撃した。またレンジャーのCVW-9からは34機が参加、ビトスルの兵舎に報復攻撃をかけた。さらに南ヴェトナム空軍は、A-1Hスカイレーダを操縦する空軍司令官、グエン・カオキ将軍が自ら陣頭指揮をとり、北ヴェトナムへの攻撃に参加した。


南シナ海で大きく回航する第77機動部隊
出典:US Navy Official Photograph #USN 1109915

しかし2月10日には再びヴェトコンによる反撃があり、米軍兵士用の宿舎に使用していたクイ・ニョン(Qui Nhon)のホテルが襲撃され、23名が死亡、54人が負傷した。このため翌日にはまた米海軍と南ヴェトナム空軍とが協同で北ヴェトナムのチャン・ホア(Chanh Hoa)にある敵兵舎への爆撃と機銃掃射を加えた。今回の作戦は”Operation Flaming Dart II”と名付けられ、空母レンジャー、ハンコック、コーラル・シーから併せて95機の艦載機が出撃した。しかしながら、東南アジア独特の北東モンスーンに視界を遮られ、この作戦では敵に対し有効な打撃を与えることができなかった。

こうした報復戦の続く中、北ヴェトナムへの爆撃を強化するしかないと決断したジョンソン大統領は2月19日に、北緯20度以南の北ヴェトナム内の通信ライン、軍事施設、兵站施設などへの攻撃作戦”Operation Rolling Thunder”の遂行を太平洋軍に対し許可した。このローリング・サンダー作戦は、南ヴェトナムのヴェトコンに対する北ヴェトナムからの補給路を断ち、そして北への経済的打撃を与えることが大きな目的であった。しかしこれには、政治的判断から数々の制限が設けられ、後の作戦にも影響を及ぼすことになる。特に作戦の目標選択、兵装及び航空機の選択、攻撃のタイミングなど、作戦の詳細のほとんどがワシントンで決定された。そのため、南北ヴェトナムの境界に設けられた非武装地帯のすぐ近くにある場所など、軍事的価値の低い地点が攻撃目標に選ばれることも多く、その間ハノイ近傍には、強靭な防御網が構築されていった。

ローリング・サンダー作戦は、3月2日、米空軍と南ヴェトナム空軍のXom BangとQuang Kheへの攻撃を皮切りに開始された。悪天候と国際関係、そして南ヴェトナムの不安定な政治状況のため、作戦は遅れた。海軍は3月15日になってやっと作戦に加わり、第77機動部隊の空母ハンコック、レンジャーから飛び発ったA-1HとA-4の総計64機と支援機30機がPhu Quiの弾薬庫を爆撃した。2度目は3月18日、空母コーラル・シーとハンコックの艦載機が北ヴェトナムのビンソンとフバンにある補給施設に対して攻撃を加えた。第1波の全機は無事帰還したが、第2波以降には損害が続出し、作戦は損害の割に効果の上がらない結果となった。その大きな理由は、農村地帯への攻撃が禁止されていたことによる。このためヴェトコンや北ヴェトナム兵は農民を装って荷車での軍事物資の輸送をやってのけた。前線からの改善要望に対し、ホー・チ・ミン・ルートへの大規模な攻撃を可能とするため、4月3日に南部ラオスのPanhandle地区をローリング・サンダー作戦区域から切り離し、そこでは”Steel Tiger”と名付けられた作戦を展開し始めた。


フライトラインに並ぶ米海軍から供与された南ヴェトナム空軍のA-1H

一方、1965年2月16日に南ヴェトナムのVung Ro Bayの海岸に100トンクラスの北ヴェトナムのトロール船が弾薬を下しているのが発見された。このため、MACV(ヴェトナム派遣軍事援助司令部)、米海軍、南ヴェトナム海軍の代表が協議し、哨戒機と高速哨戒艇による海岸線パトロールを開始することを決定した。この作戦はOperation Market Timeと呼ばれ、タイやフィリピンに派遣された哨戒飛行隊のP-2H、P-3A、P5M-2Gが任務にあたった。この新しい作戦は、カンボジアの南部から南北ヴェトナムの国境付近まで、絶え間なく続けられた。地味な任務であったがこの作戦は大きな成果を得た。


マーケット・タイム作戦に向かうVP-17のSP-2H(Bu.No.143172)
Photographed by Bob McLaughlin

これまで米軍は南ヴェトナム国内の戦闘に、航空機、艦船での支援はしたものの地上軍の投入にはためらいがあった。しかしここにきてワシントンは地上軍の投入を決定した。まずはヴェトコンと北ヴェトナム正規兵に対抗し、ダナンに置かれた空・海軍の施設防御のため、海兵隊3,500名が投入されることになった。そして3月8日、ドッグ型輸送揚陸艦や揚陸輸送艦で運ばれた第9海兵旅団、第3大隊の海兵隊員が、ダナンに上陸した。彼らの出発にあたり、ジョンソン大統領は今回の派遣が一時的なもので、自衛的処置であると述べた。しかし、この年の年末には地上軍の数は200,000人にまで膨らむことになる。

さて海軍のローリング・サンダー作戦であるが、その後も3月26日、3月31日と、空母コーラル・シーとレンジャーの艦載機が北ヴェトナムを爆撃した。そして4月3日、北爆にむかった海軍の艦載機の前に北ヴェトナムの戦闘機が迎撃に現れた。約50機でハノイ南方の爆撃に向かう海軍機の編隊に北ヴェトナムのMiG-17が攻撃を仕掛けてきたのである。これが北ヴェトナムのMiG機と米軍機との初の空戦となったが、北ヴェトナム機の攻撃は単調なもので、幸いにして海軍機には被害は出なかった。しかし翌4月4日、今度は米空軍のF-105の編隊に北ヴェトナムのMiG-17が襲いかかり、2機のF-105が撃墜されるという事態が発生した。このときは前日とは打って変わりMiG機は執拗な攻撃を繰り返したという。以降、北ヴェトナムのMiG機との交戦回数が日増しに増えていくことになる。


空母レンジャーから空母コーラル・シーを見る。手前の機体はRVAH-5のRA-5C
出典:US Navy Official Photograph #USN 1110187-C


この時期、空母艦載機による南ヴェトナム内の敵軍への攻撃が許可されたことから、空母は南シナ海の2か所に展開するようになった。1つは以前に設定されたダナン東方沖合のヤンキー・ステーション、そして新たに設定されたのが、Dixie Stationと呼ばれた、北緯11度東経110度のカムラン湾である。空母はこの2か所に位置して北ヴェトナムへの爆撃と、南ヴェトナムでのヴェトコンや北ヴェトナム軍の抑止攻撃に艦載機を発進させていた。そして攻撃空母も交代時期となったため、コーラル・シーとミッドウェイを除く空母が入れ替わり、新たにCVA-31 “Bon Homme Richard”、CVA-34 “USS Oriskany”が南シナ海へ入った。そしてデキシー・ステーションには空母ミッドウェイとコーラル・シーが移動し、4月15日にはサイゴン西北のヴェトコン陣地に対しCVW-2とCVW-17の飛行隊が攻撃を加えた。6月に入るとさらに地中海からCVA-62 “USS Independence”が加わり、南シナ海の攻撃空母は5隻となった。加えてこのインディペンデンスには新兵器が搭載されていた。それは、形は少しずんぐりしているが大きな機首に強力なAN/APQ-92捜索レーダとAN/APQ-88追随レーダを搭載するとともに、DIANE(Digital Integrated Attack Navigation Equipment)と呼ばれるAN/ASQ-61 デジタル計算機や慣性航法装置など高度なアビオニクスと組み合わせ、全天候、夜間航法・攻撃能力を持つグラマンA-6A イントルーダであった。またA-6Aは兵装搭載能力が7トン近くあり、第二次大戦の爆撃機B-17以上の搭載能力を有していた。



Mk82 500lbスネークアイ爆弾を搭載して空母インディペンデンス艦上で
出撃順をするVA-75のA-6Aイントルーダ
出典:US Navy Official Photo Archive


この新鋭攻撃機A-6Aを装備するVA-75がインディペンデンスから初めての作戦に飛び発ったのが1965年7月4日のことである。爆撃目標は南ヴェトナム内のヴェトコン解放区で、地上部隊を支援するためのものであった。その後も数多くのミッションをこなすが、その秀でた搭載能力と航続距離、さらには新型アビオニクスによる航法能力の高さで、攻撃能力はこれまでの主役A-4を大きく上回り、日増しに夜間攻撃への出撃が増え、VA-75の夜間出撃率は80%にも達した。


Mk82 500lb スネークアイ爆弾を一斉に投下するVA-196のA-6A
出典:US Navy Official Archive


こうした米軍の攻撃力の増大に対抗するかのように、北ヴェトナムは地対空ミサイル(SAM)の導入を進めた。米軍側が北ヴェトナムの地対空ミサイルの存在を知ったのは、4月5日に空母コーラル。シーから北ヴェトナムに偵察飛行を行ったVFP-63 Det.DのRF-8Aが持ち帰った写真からである。その写真はハノイ南東15マイル付近で撮影されたもので、SAMサイトがはっきりと確認できた。このSAMはソ連製のSA-2ガイドラインで、その後米軍機を悩ますことになる。現地部隊からはSAMサイトの攻撃の上申がなされたが、ハノイが爆撃禁止区域となっていたため許可されなかった。そのSA-2のサイトは、時間とともに増設されていき、7月までには数個のSAMサイトがハノイ周辺に配備された。そして最初の犠牲は、8月に発生した。空母ミッドウェイから発進したVA-23のA-4Eが北ヴェトナムのSA-2に初めて撃墜されたのである。この後数回、撃墜される被害が発生し、重い腰が上げられた。このSAMサイト攻撃の作戦は”Iron Hand”と名付けられた。この作戦は8月12日に開始されたが、SAMサイトの破壊にまでは時間を要し、最初の破壊は10月17日まで待たねばならなかった。この日は、インディペンデンスのVA-75のA-6AがSAMサイトの攻撃ポイントまで攻撃部隊を先導し、VA-72とVA-86のA-4Eが攻撃、破壊した。


SA-2 Guideline 地対空ミサイル
出典:http://steeljawscribe.com/2008/10/02/flightdeck-friday-iron-hand-intruders


こうした北ヴェトナムの防空体制への対抗処置として、米軍では電子戦機や電子戦機材が配備され始めた。海軍ではA-3 スカイウォーリアを転用した電子戦機EA-3Bを空母航空団へ配備し、海兵隊はF-10B スカイナイトを電子戦機に改造したEF-10Bを陸上基地へ配備している。これらの機体は、攻撃部隊に随伴し、レーダーサイトやSAMサイトへの電子妨害を行った。1965年4月10日にダナンに配備された第1海兵混成偵察飛行隊(VMCJ-1)分遣隊のEF-10Bは、空軍の作戦をも支援しており、SAMサイト制圧作戦であるアイアン・ハンド作戦にも貢献した。



米空軍の偵察機が撮影した北ヴェトナムのSAMサイトとSA-2ガイドライン・ミサイル
出典:USAF Official Photo Archive


空からの圧力を一層増すため、米国はB-52のヴェトナム戦への投入を考えていた。そして2月になって30機のB-52Fをグアムのアンダーセン空軍基地へ、そして32機のKC-135を沖縄の嘉手納基地へ移動させる決定が下された。このB-52Fには通常戦用に改修が加えられていた。本来B-52は核攻撃を任務としてきたが、ヴェトナムの様な通常戦に使用するため、胴体2か所に設けられた爆弾倉にあるHound Dogミサイルの弾架に、それぞれ12発の750lb爆弾を搭載を可能とすることで、合計51発の750lb爆弾を携行できるようになった。(従来は27発)こうした改修は”Sun Bath”改修と呼ばれ、合計74機のB-52Fに施された。

B-52をグアムへ移動させたものの、空軍は北ヴェトナムに対しこの機体を使用したくはなく、何カ月もヴェトナムへ向かわすことはなかった。その理由は、北ヴェトナムでB-52を失った場合の米国の威信失墜、もう一つは、B-52の投入は限定戦争の域を超えるとの思いを国民に与えるであろう、という二つの心配からであった。しかしヴェトナム派遣軍司令官である、陸軍のウェスト・モーランド将軍は、B-52をすぐさま使用し、南ヴェトナムのヴェトコン地域を絨毯爆撃させることを望んだ。そしてさらなる機数のB-52Fがグアムに移送され、1965年6月18日にコードネーム”Arc Light”と名付けられたB-52による作戦が開始された。最初のミッションには27機のB-52が参加したが、アンダーセン基地からの出撃時2機のB-52Fが空中で衝突、また1機がトラブルでひきかえし、さらに爆弾を落としたものの、敵軍は既に逃げ去った後という様で、成果のないミッションとなった。この後のアーク・ライト作戦でも、機体のロスはなかったものの同様なミスが続いた。その大きな原因は、アーク・ライト作戦の遂行決定権がワシントンにあり、戦場の司令官からの要請が上がっても、許可されるまでのプロセスに時間を要するがためであった。こうしたプロセスは8月に入って少しは改善されるものの、B-52の爆撃システムにも問題があり、効果の改善にはさらに時間を要することになる。



750lb爆弾を投下する米戦略空軍のB-52F爆撃機
出典:USAF Official Photo Archive

1965年の秋になり、空母タイコンデロガとCVW-5は南シナ海に展開する時期を迎えた。機種の更新はなかったが、攻撃飛行隊の一部に変更があり、A-4E装備のVA-55が移動し、交代にCVW-14から A-4Cを装備したVA-144が移動してきた。このときのCVW-5の構成を表9-2に示す。



表9-2 1965年9月28日~1966年5月13日の西太平洋/ヴェトナム展開時のCVW-5の編成




そしてタイコンデロガに少し遅れ、10月19日にはCVW-11を載せた空母キティ・ホークが、また10月26日には世界初の原子力空母エンタープライズがCVW-9を載せサンディエゴを発った。そしてこの2隻の空母にはある新鋭機が搭載されていた。それは、艦載早期警戒機のグラマンE-2ホークアイであった。E-2ホークアイはタイコンデロガに載っているE-1Bトレーサの後継機で、背中に載せた大型のロート・ドームの中に収められたレーダアンテナAN/APA-143、捜索レーダAN/APS-96、計算機システム、データリンク・システムなどから構成されるATDS(Airborne Tactical Data System: 空中戦術データシステム)と呼ばれる指揮管制システムを搭載しており、敵味方を識別し、迎撃機の誘導・管制ができる能力を有していた。空母キティ・ホークのVAW-11 Det.CにはE-2Aが配備されていたが、空母エンタープライズのVAW-11Det.Mには、レーダとアンテナをそれぞれAN/APS-111とAN/APA-164に更新した新型のE-2Bが配備されていた。これらのE-2は、空母がヤンキー・ステーションやデキシー・ステーションに展開した際、艦隊の目として、早期警戒のみならず、要撃管制、通信中継、そして見逃せないのがCSAR(Combat Search and Rescue: 戦闘間捜索救難)における救難ヘリコプターの誘導で、墜落したパイロットの救助作業に大いに貢献した。



CVA-43 空母コーラル・シーの甲板をタキシングするVAW-113のE-2B
出典:US Navy Official Photo Archive


さて9月28日にヴェトナム沖を目指してサンディエゴを発った空母タイコンデロガとCVW-5は、途中ハワイの真珠湾へ入港し、ここで休息と戦地へ向かうための最後の訓練を行った。そして11月1日にフィリピンのスビックに入港、2日ほどの休息と補給を行い、11月3日の早朝、トンキン湾に向けスビックを出港した。空母タイコンデロガは、11月5日にデキシー・ステーションに到着。すぐに南ヴェトナムのヴェトコン陣地や補給路への攻撃の準備に入る。CVW-5の攻撃隊は何十回、何百回という出撃を繰り返した。そして11月も末に近づいたとき、CVW-5はローリング・サンダー作戦に参加するためタイコンデロガとともにヤンキーステーションへと移動した。北爆は一層の緊張が付きまとう。SAMやMiG戦闘機のお迎えがあるからである。さらにラオスへのスチール・タイガー作戦と続き、全員の疲労がピークに達した12月2日、やっと休養のため横須賀へ向かうことになった。そして横須賀に向かう途中にある事件が起こった。

それは沖縄から東へ約80milの地点で核兵器搭載訓練中のVA-56のA-4E(Bu.No. 151022)がB43戦術核爆弾を装着したまま、パイロットもろともエレベータから滑り落ち、水没するという事故である。パイロットのダグラス・ウェブスター中尉は、脱出できずに死亡した。パイロットの遺体も核爆弾も未だ発見されていない。(この事故が明るみに出るのは1981年になってからである。)タイコンデロガはそのまま横須賀に向かい、休息と補給後に再びトンキン湾へと引き返した。そして再びデキシー・ステーションとヤンキー・ステーションでの作戦を遂行し、4月に入ってヴェトナム沖を離れる。タイコンデロガとCVW-5は南シナ海から東シナ海、そして佐世保を経由して、5月13日にサンディエゴに入港した。




ヴェトナム沖でAO-51 USS Ashtabulaから給油を受けるCVA-14 USS Ticonderoga
出典:US Navy Official Photo Archive NH97487


空母タイコンデロガとCVW-5は、総計116日間をヤンキー・ステーションとデキシー・ステーションで過ごした。その間CVW-5の飛行隊の出撃回数は10,000回を上回り、攻撃機・戦闘機が放った弾薬量は7,200トンを超えた。そして失った機体は16機、失ったパイロットは5名であった。北ヴェトナムのハイフォン近郊のUong Biの大型火力発電所、35か所の鉄橋、多数の道路、鉄道、兵舎、倉庫、また数々のヴェトコンの軍事物資補給ルート等を破壊し敵に多大の損害を与えたが、失ったものも少なくなかった。
(この章終わり)



図9-1 インドシナの地図


本章に関連する機体の塗装
 (出典:WINGS PALLETE http://wp.scn.ru/en/)


Source: ‘Oriskany and Midway carriers’,
Sea Collection, 2000,No.1

Douglas A-1H Skyraider of VA-52 in 1966




© Gaetan Marie, Gaetan Marie’s Aviation Profiles

Grumman A-6A of VA-196 in 1965




© M. Trim, ©Terry Hadler & ©D. Palmer
‘Grumman A-6A/E Intruder; EA-6A; EA-6B Prowler’ by Kurt H. Miska, Profile Publication Ltd.

Grumman A-6A of VA-65 in 1966

© Michael E. Fader, www.wings-aviation.ch

Grumman E-2B of VAW-11 Det.C in 1966

Source: ‘Air International’, January 1988(Vol.34, No.1)
Republic F-105D of 563rd TFS/23rd TFW in 1965

© Alexander Bulakh

MiG-17 of North Vietnam Air Force in 1966

 
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