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CARRIER
AIR WING FIVE
CVW-5
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Part 10 Rev.C Photo. U.S. NAVY
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by Kiyoshi Iwama |
(Rev.C 改訂版掲載 2012年1月8日)
“Tip of the Sword” 、CVW-5のハンガーに描かれた彼らのスローガンである。空母を守る剣の先は、彼ら自身であり、「剣の先の如く鋭くあれ」と戒めている。またそれは遠く母国を離れ、太平洋の西岸に置かれた剣の先をも意味するように思われる。海外を拠点とする米海軍唯一の空母航空団としてCVW-5が厚木基地に本拠地を置いて、35年が過ぎた。その間、飛行隊の編成や使用する航空機も大きく変わり、その年月の長さを感じさせる。もう少しで在日40年を迎えるが、そのとき彼らは、その記念日を岩国基地で迎える。
我々飛行機ファンを大いに楽しませてくれたCVW-5であるが、厚木基地での活動も残り少なくなった。これを機会に、CVW-5のこれまでを振り返ってみたい。
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これまでのあらすじ
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第10話 ヴェトナム戦争(中編-2)
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北ヴェトナムの防空体制は、SA-2ガイドラインの対空ミサイル陣地の数が増えるにつれ強固になっていった。そして空母タイコンデロガとCVW-5が既にヴェトナム沖を離れてしまった4月26日、SA-2に続く新たな空の脅威が出現したのである。それは、これまでのMiG-17とは異なり、3角翼の主翼を持った新鋭機、MiG-21であった。SAMサイトへの電子妨害任務を行うためハノイに向かっていた2機の電子戦機EB-66Cとそれを護衛する3機のF-4Cが、初めてMiG-21の迎撃を受けた。MiG-21は2機の編隊で米軍機に接近し、1機のMiG-21がF-4に対し23mmのGSh-23機関砲を発射した。幸いにして弾丸はF-4Cから逸れ、攻撃されたF-4Cはサイドワインダー・ミサイルで応戦した。このとき発射された2発のサイドワインダーが1機のMiG-21に命中、北ヴェトナムのパイロットが脱出し、パラシュートの開くのが見届けられた。このMiG-21を最初に撃墜する栄誉を与ったのは、第35戦術航空団/第480戦術戦闘飛行隊(35thTFW/480thTFS)のパイロットPaul
J. Gilmore少佐とレーダ手のRobert A. Bleakley 中尉であった。しかしある意味で、この勝利は幸運であった。何故なら北ヴェトナムのパイロットがまだ十分にMiG-21に習熟していなかったため、熟練の米軍パイロットが機銃のないF-4Cをうまく操り、相手の後方に回り込み、赤外線ホーミングのサイドワインダー放つことができたからである。 |
北ヴェトナム空軍のMiG-21PF
出典: U.S. Air Force Official Photo |
一方海軍側には、なかなかミグ機に遭遇するチャンスがやってこなかった。そして空軍機のMiG-21撃墜から2カ月が過ぎた6月12日、攻撃に空母ハンコックを飛び発ったA-4の編隊を護衛していたVF-211所属のF-8Eが、3,500ftの雲間から攻撃を仕掛けてくる4機のMiG-17を発見した。編隊リーダの飛行隊長Harold
L. Marr中佐は操縦するF-8Eを反転させ、MiG-17目がけてAIM-9Dサイドワインダーを発射した。初弾が外れ、マー中佐は尽かさず2発目を発射。すると2発目にサイドワインダーが、見事逃げるMiG-17の1機に命中し、マー中佐は海軍機初のミグ機撃墜を記録した。さらに彼は残るMiG機にも20mm機銃を浴びせ、その後2発のサイドワインダーを発射して敵を蹴散らした。 |
CVA-31 USS Bon Homme Richard に着艦するVF-211のF-8E
出展: US Navy Official Photo Archive
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海軍のMiG-21撃墜にはさらに時間を要した。1966年10月9日、攻撃空母CVA-34 “USS Oriskany”から発進したVF-162のF-8Eの編隊は、対潜空母CVS-11
“USS Intrepid”を飛び発ち北爆に向かう攻撃隊の護衛についていた。この編隊の上空で監視していたのがVAW-11 Det.GのE-1B早期警戒機で、E-1Bは接近してくる北ヴェトナムの要撃機を発見、すぐさまF-8Eの編隊に情報を伝え、北ヴェトナム機の方向に誘導した。MiG-21は雲上を飛ぶ米軍機より低く、高度3,000ftを高速で接近してきたため、F-8Eは編隊をブレークし、上方からMiG-21を急襲した。まず飛行隊長のRichard
D. Bellinger中佐が1機のMiG-21と接近戦に入り、後方からAIM-9Dサイドワインダーを2発発射すると、サイドワインダーはMiG-21に吸い込まれるように飛び込んでいった。一瞬すべてが静止したかに見えた後、MiG-21は爆発音とともに機体の一部を飛散させ、水田へと墜落して行った。これが米海軍機初のMiG-21撃墜の記録である。
さらにこの日はもう一つの海軍機による撃墜が記録された。対潜空母イントレピッドから飛びあがったVA-176のA-1Hが、20mm機銃でMiG-17を射止めたのである。ヴェトナムでの戦いに米軍が介入して以来、スカイレイダーによるミグ機の撃墜はこれで3度目となった。
このようにミグ機とSAMの増強で、北ヴェトナム上空の脅威は一段と増していった。そんな中1966年の12月2日は、“黒い金曜日”となった。この日の早朝、タイのコラート航空基地(Korat
AB)の第388戦術戦闘航空団(388TFW) のF-105Dと南ヴェトナムのダ・ナン航空基地(Da Nang AB)の第366戦術戦闘航空団(366TFW)
のF-4Cが北ヴェトナムのPhuc Yen近郊の石油貯蔵施設の攻撃に飛び発った。Phuk Yenにはミグ基地があることが知られており、攻撃隊には注意が与えられた。しかし脅威は要撃機だけでなかった。最初の被害者になったのは、第366戦術戦闘航空団/第389戦術戦闘飛行隊(366TFW/389TFS)のF-4Cであった。SA-2が至近距離で爆発し、機体が炎に包まれた。2名の乗員は無事脱出したものの地上で北ヴェトナム軍に捕らえられ捕虜となった。2番目の被害者は366TFW
/480TFSのF-4Cで、同じ様にSA-2で撃墜され、乗員2名が捕虜となった。3番目の被害者は、388TFWのF-105D、そして4番目が攻撃成果確認のためサイゴン近くのタン・ソン・ニュット航空基地から偵察に向かった第460戦術偵察航空団(460TRW)
のRF-4Cで、対空砲火により撃墜された。さらに被害は広がり、空母コーラル・シーから飛び発ったVF-154のF-4BとVA-22のA-4C 2機、そして8番目が12TFW/559TFSのF-4C(63-7608)で、この機体にはヴェテラン・パイロットのKen
Cordier大佐が乗っていた。彼の機体にはSA-2が直撃したが、幸運にも脱出に成功した。しかし彼も捕虜として捕らえられたのである。 |
KC-135Aから給油を受ける、366TFW/480TFSのF-4C。750lb爆弾を満載している。
出典:U.S. Air Force Official Photo |
ヴェトナムにおける米軍航空部隊は、空・海軍問わずワシントンの定めた交戦規則に従わざるを得なかった。しかし、それが足枷となって地上攻撃は思うような戦果があがらず、反面日増しに増大する北ヴェトナムの防空体制の強化により、作戦機の損耗が増え続けた。その象徴がこのブラック・フライデー(黒い金曜日)である。
そして年が明けた1967年は、またまたミグ機との戦いで始まった。"ウルフパック“の名前で知られる空軍の第8戦術戦闘航空団(8TFW)のF-4Cが1月2日に7機、1月6日に2機、合計9機のMiG-21を撃墜するという成果を上げたのである。これら9機のうち6機はセミ・アクティブ電波ホーミングのAIM-7Eスパロー・ミサイルで仕留めた。この頃のスパローはまだ信頼度も低く、制空用ミサイルとしては十分とは言い難かった。そのスパロー・ミサイルが効果を発揮した裏には電子戦を活用した米軍側の戦闘能力があったと言える。このときも警戒管制機のEC-121が空中からミグ機の動きを察知し、F-4戦闘機を会合点に誘導してミサイル発射環境を整えた。また相手方の防空レーダに対してはEB-66やワイルド・ウィーゼルの役目を担ったF-105とF-104とが電子妨害機材(ECM)を駆使した眼つぶしを行い、戦闘機部隊を援護したのである。飛行場の爆撃にはワシントンの制約が課せられていたが、空中に上がってきた敵機を落とすには、何の許可も不要であった。
ヴェトナムでこうした空の闘いが繰り広げられている年明けの1967年1月5日、CVW-5はCVA-19 “USS Hancock”とともに 3度目のヴェトナム展開に向けサンディエゴを発った。今回は約7年間を共にした空母タイコンデロガと別れての旅で、タイコンデロガは既にCVW-19とともにヴェトナム沖にあった。このときの飛行隊の編成を表10-1に示す。戦闘飛行隊のVF-51とVF-53には変化がなかったものの、攻撃飛行隊が総入れ替えとなり、VA-52、VA-56、VA-144に替ってVA-93、VA-94、VA-115が配属されてきた。因みにVA-52はCVW-19(USS
Ticonderoga)へ、VA-56はCVW-9(USS Enterprise)へ、VA-144はCVW-11(USS Constellation)へと移動になっている。CVW-5はエセックス級空母に搭載されたため、大型空母用のA-6A
イントルーダが配備されるのは少し先のことで、当時はA-4 スカイホークやA-1 スカイレイダーの運用飛行隊が転属してきた。 |
表10-1 1967年1月5日~1967年7月22日の西太平洋/ヴェトナム展開時のCVW-5の編成
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空母ハンコックとCVW-5は、カリフォルニア沖での訓練の後ハワイに寄港することなく横須賀に直行し1967年1月22日に入港した。そして3日後の1月25日には横須賀を出港、2月1日にフィリピンのスビック・ベイに到着、翌日には慌ただしくヤンキー・ステーションへと向かった。空母ハンコックとCVW-5は6月の初めにはヴェトナム沖を離れているが、その間わずかな休息を佐世保とスビックでとった以外は、多くの時間をトンキン湾ですごした。空母ハンコックが到着した時期、ヴェトナム沖に展開していた空母と航空団は、空母タイコンデロガ(CVW-19)、空母キティー・ホーク(CVW-11)、空母エンタープライズ(CVW-9)、対潜空母キアサージ(CVSG-53)、対潜空母ベニングトン(CVSG-59)であり、その展開規模の大きさが窺える。これらの艦載機は、空軍や海兵隊の作戦機とともに連日、北ヴェトナムの軍事施設や南ヴェトナムのヴェトコン拠点への射爆撃に明け暮れていた。 |
空母ハンコックの飛行甲板でAIM-9D サイドワインダー・ミサイルを運搬する飛行甲板要員
出典:US Navy Official Photo Archive Photo # USN 1142095 |
1月の敗北で少し大人しくなった北ヴェトナムのミグ部隊も、3月に入ると動きが活発になり、再び米軍機の交戦が増加した。そんな中成果を上げたのは米空軍の第355戦術戦闘航空団のF-105D/F サンダーチーフ部隊であった。空対空ミサイルを装備しないF-105は20mmバルカン砲で7機のMiG-17を撃墜したのである。こうしたミグ機との交戦回数の急増に対し、ワシントンもやっと重い腰をあげ、北ヴェトナムの飛行場への攻撃に許可を与えることとなった。
この許可の下、最初に行動に出たのが空母キティー・ホークのCVW-11であった。1967年4月24日、キティー・ホークから飛び発った攻撃隊が、ハノイ北東にあるケプ飛行場を攻撃、滑走路や飛行場設備に打撃を与えた。このとき2機のMiG-17が攻撃隊の要撃に上がってきたが、VF-114の2機のF-4Bが応戦、AIM-9BとAIM-9Dでこれを撃墜した。 |
空母キティー・ホークに着艦するVF-114のF-4B
出典: US Navy Photo |
さらに、5月1日には空母ボン・ノーム・リチャードから発進したVA-76のA-4Cが、北ヴェトナムの飛行場を攻撃中に味方機から背後から迫るMiG-17の通報を受け、空中戦に入った。身軽なスカイホークはMiG-17の後ろに回り込み、地上攻撃用に抱えていたズーニ・ロケット弾をミグ機に向かって発射、これを撃墜するという離れ業をやってのけた。海軍機はA-4Cによるこの1機の撃墜を含め、5月に6機のMiG-17を撃墜しているが、残る5機のいずれも空母ボン・ノーム・リチャードに搭載されたCVW-21のVF-211とVF-24のF-8E/Cが記録したものである。
一方CVW-5であるが、他の空母航空団と同様に激しい戦闘に参加し、射爆撃では敵にダメージを与えることができたものの、今回のクルーズではミグ機撃墜の記録を残すことなく、6月の末に帰国の路に就くことになった。
この年はその後も空・海軍機がミグ機との激しい航空戦を展開し、米軍側は総計75機の北ヴェトナム戦闘機を撃墜した。そしてその内16機が海軍機による結果となった。 |
空母ボン・ノーム・リチャードを発艦するVA-212のA-4Eスカイホーク
出典: US Navy Official Photo Archive Photo# USN 1142110 |
CVW-5の帰国後、トンキン湾では大きな事故が起こった。これは大型空母の1番艦として就役し、初めてヴェトナムでの実戦に参加した攻撃空母CVA-59 “USS Forrestal”での大火災である。7月25日にヤンキー・ステーションに入った空母フォレスタルはすぐに戦闘に入り、作戦5日目の7月29日も第一次攻撃隊の発艦が終わり、第二次攻撃の準備が進められていた。後部飛行甲板上で作業を行っていたエンジン始動用補機車両が、始動しながら向きを変えようとしていたとき、その高温の排気が、近くに並んでいたF-4Bファントムが搭載するズーニ・ロケット弾ポッドを直撃した。そのため高温の空気であぶられたロケットが暴発し、ポッドから飛びだすと、前方に並んでいたA-4にあたって、爆発し、その火災が広がり、甲板に並ぶ航空機が次々と延焼したのである。結局火災は12時間たって鎮火したものの、その後の調査で134名の命と21機の航空機が失われたことが判明した。勿論負傷者や損傷を受けた航空機さらに多く、、フォレスタル自身の損傷を含めるとその損害は莫大なものとなった。この火災によりフォレスタルは戦線を離れ、修理のためノーフォークに向かうことになった。 |
消火活動が行われるCVA-59 空母フォレスタルの飛行甲板。航空機の残骸が散乱している。
出典: US Navy Photo Archive Photo# USN 1124794 |
海軍にとってこの年のもう一つの出来事は、またまた新鋭機が投入されたことであった。それは、1967年12月3日にトンキン湾に到着した空母レンジャーが搭載してきたVA-147
“Argonauts”のA-7A “Corsair II”である。一見F-8 クルーセイダーに似たこの機体は、小型ながら頑強で、亜音速機ながら20,000lb(9,000kg)もの爆弾を搭載できた。VA-147は到着後すぐに作戦に参加し、最初のミッションはヴィン(Vinh)周辺の鉄橋と道路への攻撃であった。さらに12月17日にはA-4,A-6とともにハノイとハイフォンとをつなぐ高速道と鉄道の鉄橋を攻撃した。このときSA-2の攻撃を受けたもののこれをかわし被害はなかった。しかし、12月22日の作戦では1機が撃ち落とされ、A-7の最初のコンバット・ロスを記録している。それでもA-7Aは期待通りの成果を上げたようである。今回のA-7のヴェトナム展開には空軍の要員が参加していた。彼らは空軍でのA-7採否の判定材料として、実戦でのA-7の攻撃効果を評価する目的で派遣されてきたのである。結局、この評価結果を受け、空軍は新しい攻撃機としてこのコルセアIIの採用を決定し、A-7Dとして導入することにした。
1967年もこうして終わろうとしていたが、空の闘いの裏では地上軍の戦闘が一段と激化し、1966年初頭では19万人であった米地上軍が、この年の後半には50万人にまで膨れ上がっていた。そして勝利の見えないこの戦いの中で戦死者も増える一方となり、米国内でも反戦活動が大きなうねりを呈し、戦争の流れを変えようとしていた。 |
500lbスネークアイ爆弾を搭載し、北爆に向かうVA-147のA-7A
出典: Lt. Terry Anderson, USN |
1968年1月23日、ヴェトナム戦争に全力が注がれていた中、極東で重大な事件が起こった。北朝鮮の軍事情報収集ミッションにあたっていた情報収集艦AGER-2 “USS Pueblo”が北朝鮮に拿捕され、銃撃戦の上1名が死亡、残る全員とプエブロ号が北朝鮮のウォンサン(元山)港に連行されたのである。
プエブロ号は1月5日に横須賀を出港し、一度北朝鮮の領海ぎりぎりのところで情報収集を行い、佐世保に寄港している。その後1月11日に佐世保を出港し、北朝鮮とソ連の国境近くまで北上、その後南下して、北朝鮮の沿岸沿いに情報収集活動を行う予定であった。プエブロには北朝鮮沿岸から13マイル以内には接近しないよう命令が下されており、それを守って航行していたが、23日の正午頃、突然北朝鮮の駆潜艇がプエブロ号に接近してきた。この時のプエブロ号の位置は、近傍の北朝鮮の島から15.8マイル沖合にあった。プエブロ号からはすぐに援軍を求める緊急通報が出され、機密文書や機密機材の破壊・焼却を行おうとしたが、完全に処置されない状態で北朝鮮軍に乗り移られ、拿捕されてしまった。ウォンサン港へ連行される間に在韓米空軍からの支援が間に合えば助けられた可能性があったが、米軍内の連絡の悪さで、何の支援も得ることなく連れ去られる事態となってしまった機密書類などが北朝鮮の手に落ちただけでなく、乗組員の大多数が捕虜となったことがワシントンにも大きな衝撃を与えた。
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北朝鮮に拿捕された米海軍の情報収集艦AGER-2 USS Pueblo
出典: US Navy Official Photo Archive |
ヴェトナムでも同様に衝撃の走る出来事が起こった。南ヴェトナムの旧正月に当たるテト期間の、1月30日に北ヴェトナム軍とヴェトコンによる、ハトラン、クウィニョン、ダナンなど南ヴェトナム35都市へのテト攻勢と呼ばれる一斉攻撃が仕掛けられた。これはテト休戦を拒否されたことから共産側が仕掛けたもので、両軍の間で激しい地上戦が展開された。米軍と南ヴェトナム軍も反撃にかかり、共産軍の被害も少なくなく、ヴェトコン側も38,794人の死者と6,991人の捕虜を出した。しかし、共産軍も攻撃の手をゆるめなかった。南部のユエ(Yue)とケサン(Khe
Sanh)での地上戦は一段と激しいもので、特に海兵隊の航空基地がおかれたケサンでは大きな被害が続出した。1月21日には着陸寸前のC-123D輸送機が地上砲火で撃墜され、乗員48名の命が失われた。また2月10日、11日には物資輸送中のC-130が狙われ、撃墜された。さらに地上に駐機した機体も狙われ、多くのヘリコプターを含む作戦機が破壊された。
こうした共産軍の攻勢に対し、米空軍はB-52の投入を決定した。2月1日には月間800~1,200ソーティの出動率が2月15日には1,800ソーティ/月まで増加した。B-52は、この“Operation Ark Light”の時期にはタイのウタパオ基地(U-Tapao)基地に進出しており、その威力は一層の効果を発揮した。 |
共産軍のテト攻勢への報復に投入された米空軍のB-52Dによる爆撃
出典: U.S. Air Force Official Photo |
一方本国に戻っていたCVW-5にも年が明けて南シナ海へ展開する日が近づいていた。飛行隊の中核となる戦闘飛行隊と攻撃飛行隊には大きな変化はなく、VF-51がF-8EからF-8Hに機種改編するとともにVA-115が転出し、替ってA-4F装備のVA-212が転属してきた程度である。分遣隊の方では重攻撃飛行隊のVAH-4と入れ替わってEKA-3Bを装備する電子戦飛行隊のVAW-13が転属してきた。またVAW-11はVAW-111と呼称変更されている。詳細を表10-2に示す。
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表10-2 1968年1月27日~1967年10月10日の西太平洋/ヴェトナム展開時のCVW-5の編成
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空母ボン・ノーム・リチャードとCVW-5は1968年1月27日にサンディエゴを出発し、洋上での訓練を行った後、ハワイを経由して横須賀に向かった。そしていつも通り、横須賀での休息と物資補給後、フィリピンのスビック・ベイを経由してトンキン湾に入り、直ぐに作戦にとりかかった。 |
空母ボン・ノーム・リチャードの甲板に並ぶCVW-5の航空機群
出典: US Navy |
ボン・ノーム・リチャードとほぼ入れ替わりに帰路に就いた空母コーラル・シーには第一線での闘いを終えた最後のレシプロ艦載攻撃機A-1スカイレイダーの飛行隊、VA-25が搭載されており、本国へ帰還後は退役式が待っていた。レシプロ機に似合わない大型の機体は多用途性に富み、早期警戒機や電子戦機までをも生みだし、ヴェトナム戦争でも大いに活躍した。このスパッドの退役で、海軍はA-7の飛行隊を増強する計画であった。
前戦での戦闘の続く中、米国内では反戦運動の高まりの影響を受け、政府内でも北ヴェトナムへの爆撃停止をめぐって意見が対立し、この結果マクナマラ国防長官が1968年2月29日に辞任、ジョンソン大統領が3月31日に北爆の部分的停止を宣言した。米国内ではさらに混乱に拍車をかけるような事件が連続した。それは4月4日のテネシー州メンフィスにおけるマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師の暗殺、そしてカリフォルニアのロサンジェルスでのロバート・ケネディー司法長官の暗殺である。民主党政権は大きな力を失い、米国内の情勢は混とんとした状態に陥って行く。
北爆停止の命令を受け、米軍機の行動範囲も限られ、艦載機は南北ヴェトナム国境や北ヴェトナムとラオス国境の共産軍の資材集積地域への攻撃に拍車をかけ、各空母航空団は戦闘飛行隊と攻撃飛行隊を送り込んだ。特にエセックス級空母にも配備が始まったA-7コルセアIIの活躍が目立つようになってきた。また北爆の停止とともにミグ機との遭遇機会も減少し、撃墜数もほとんど記録されることはなかった。そんな中、CVW-5にも待望のMiG Killerが生まれた。1968年7月24日、まずF-8Hを操縦していたVF-51の飛行隊長
Lowell R. Meyers中佐がMiG CAPミッションを行い、北ヴェトナムからの帰還中にMiG-21と遭遇、空戦に入りAIM-9サイドワインダーでこれを撃墜した。次に7月24日にF-8Eを操縦していたVF-53の飛行隊長
Guy Cane中佐がMiG-17と遭遇、同じくこれをAIM-9サイドワインダーで撃墜。さらに1週間後の8月1日、VF-51のNorman K.
McCoy中尉がMiG-21をサイドワインダーで撃墜したのである。 |
空母ボン・ノーム・リチャードの甲板で出発前の点検を受けるVF-51のF-8H
出典: US Navy Official Photo Archive |
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