第2回で述べたように F1レーシングカーは60年代にパイプシャーシーからモノコック構造に大幅な進歩を遂げるのだが、当時のブラバムのレーシングカーは パイプシャーシー時代の最後を飾るものとなった。
実は、ブラバムは F-1で3度目の優勝を遂げた 1966年は意図的に パイプシャーシーを採用したといわれている。老練なブラバムは 他チームが 新しいモノコックシャーシーと新しい3リッターエンジンの導入での初期トラブルでもたつくと予想し 旧式ながら信頼性の高いマシンを作り上げれば、確実に勝てると踏んだのである。
その作戦が見事に功を奏して、混乱の66年シーズンで4勝をあげ、勝ち抜いた。その発想は決して時代遅れではなかったのだ。 |
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レーサーの登竜門といえる F-2,F-3でも、ブラバムは手荒い操縦にも耐える強度の高い堅実な鋼管スペースフレームのシャーシーを製品として送り込んだ。ヨーロッパだけでなく、日本でもブラバムのマシンを鈴鹿サーキットが大量に購入し、それがプライベーターに放出され、幾多のレーサーを育てた経緯がある。その一人が生沢徹だったわけである。
一時代を築き、F-1,F-3の発展に貢献したブラバムに敬意を表したい。
ブラバムチームは1992年に消滅したが、ジャック・ブラバムの子供、デビッド・ブラバムは1965年に生まれ、やはりレーサーとなり 1989年にイギリスF-3でチャンピオンを獲得している。その後も2,009年にALMSのLMP1クラスのシリーズチャンピオンに輝いている。やはり、カエルの子はカエルか。 |